ART SPEAK
初めてのいわき市立美術館(2)
講座の受講後、「戦後・美術の変貌展」という企画展の作品を鑑賞した。その中で、『線より』という李禹煥氏の作品が気になった。まっすぐな線が筆で同じように書かれている。すごく単純だ。一気に書いたから、下の方の線がかすれているのだろう。これなら、自分にもできそうだ。どうしてこれが芸術作品なのだろうか?
後からギャラリートークで学芸員の方から解説があった。「これは、一本の線を引く作家の瞬間の緊張感がきらめく作品。一本の線を反復することできびしい秩序が発生し、さらに作品に緊張感を与えている。この作品は、作品を作品たらしめているのは何であるかという、根源的なところから出発している。」
言われてみれば、なるほどと理解できることである。私は、作者が実際に緊張感を持って線を引く場面が思い描けなかった。完成した作品(結果)にしか目がゆかず、単純な線であるため、冷めた眼で見ていた。「作品を作品たらしめているものは何か」という追求なんて想像できなかった。目の前に見えている作品は物理的に同一であるのに、その解釈の仕方で全く別物に受け取れるということは、おもしろいことだと思う。
次に印象に残った作品は森村泰昌氏の作品である。始めに見て、笑ってしまった。顔の大きさと体がアンバランスなのだ。何より作者が女装し、真剣な顔をしているのが、こっけいに見えた。ふざけている、精神的に問題がある人ではないか?と思ったり、名画と呼ばれる作品に、このようなことをして、どこからか抗議されてしまうのではないかと心配したりしてしまった。
ギャラリートークでは、「今まで美術史は、欧米中心に書かれてきた。作者は、名画に自分を登場させ、そのような美術史に抗議している。」という解説があった。私にとっては、真剣に馬鹿馬鹿しいことにのめりこんでいる作家の姿がなんとも楽しかった。
私には、多分に権威主義的な所があり、一般的に通用する権威ある解釈を聞くと安心してしまう傾向がある。現代美術作品を鑑賞する際、「深く考えこまず、作品と出会って感じたことを大切に」とは、よく言われていることである。しかし、これはウソだ。いや、とても難しい。少なくとも、一見してわけのわからない作品を見せられたら、人はどう思うか?「これは何?どんなイミがあるの?」と考えこんでしまうのは、ごく自然なことのように思える。そして、その後、権威ある(?)学芸員から、もっともらしい解説を聞いたら、なんとなくわかった気がして安心する。作品の見方はいろいろあっていいというのはタテマエで、一つの答えを聞いて、皆安心しているのだ。そして、作品と出会って感じたことなんて、もっともらしい解説でどこかに吹き飛ばされてしまう気がする。
とは言っても、「何なのこれ?」と疑問に思う段階から、なかなか前へ進めない私にとっては、作品解説は、とてもありがたい。きっと鑑賞するには、ある段階があり、多くの作品に接するうちに、少しずつ自分なりの見方、感じ方が確立されてゆくと思っている。
(磯崎)
*本ページの内容は、1994年12月1日発行当時のものです。