ほんとうの学芸員


 森 司(もり・つかさ)さん


 今回は、『絵画考−器と物差し』展を企画された水戸芸術館学芸員の森司さんに、水戸−京都間の書簡の交換により、お話しを伺いました。以下は、書簡でのやりとりを、Q&A風にまとめたものです。

V(ボランティア):美術への関心をいつ頃どのように持たれたのですか。

森:自分の進路として政治、経済、文化から選ぶとすれば文化、その中でも美術かなという思いは、高校生の1、2年のころにある程度明確にイメージしていたと記憶しています。ただそのときから美術史とはあまり思わなかったですね。実技系じゃなくて美術というと、すぐに美術史という歴史の世界を思われるかもしれませんが、時代と即した表現、というより、時代を表現したものに強い関心がありました。当時は言葉としても概念としても現代美術を知らなかったですから、結構いい加減なものです。

V:学芸員になられたきっかけは、何でしたか。

森:ここの採用試験に受かったからです。場を持つという意味で美術館での職に就きたかった。そう思うようになったのはもちろん大学の2、3年の頃ですが、はじめに美術を語る者として意見を聞いてもらえる職種として、具体的に想定したのが作家でした。田舎(出身は名古屋なのですが)では、美術を口にするのは実作者でしたし、美術館の学芸員や評論家になる方法は思いつかなかったから。(未だに学芸員の仕事はよく理解されていませんしね。「美術館で働いている」と言うと、「絵描きさんですか」と言われたりしてね。)さて、学芸員になったのは水戸芸術館が初めてですから、ここでさせてもらったというのが正直なところです。具体的な経緯としては、大学院(芸術学専攻)を終えて、就職をしなければならないときに、1970年頃に活発な展開をみせた日本の美術動向(もの派)を紹介する展覧会をイタリア・ローマ大学付属美術館で手掛けていて、まったく就職活動をするどころではなかった。修了後すぐにローマに行って、そのままヴェニス・ビエンナーレの日本館のお手伝いをヴェニスでして凌ぎながら将来を思いあぐねていたときに、日本から作家が持ってきていたアエラに、吉田秀和館長が就任した記事を読み、本当に美術館がオープンするんだと確認したのを今でも覚えています。あの頃(1987年)は美術館設立計画ラッシュで、いつ本当に開館するするかわからない話がそれなりにありましたからね。ボクは現代美術を専攻できた最初期の学生でしたから、芸術館の方針は本当にラッキーでしたね。逃していたらたぶん今頃は違う仕事に就いていたと思いますよ。

V:『絵画考』以降、森さんの意識に変化はありましたか。

森:変化と言えば、基本的には予感をしていたものを改めて確認し、より強く実感していることです。何をかと言えば、歴史性と価値観の問題ですね。準備に追われていた頃は今ほど明確に意識していなかったけど、「絵画」を言葉として選んだのは、現代美術がこれ以上歴史との関係を無頓着のまま進んでも展開が苦しいという印象は強くあったのでしょう。

V:美術館は、何をするための場所だとお考えですか。

森:学芸員としては美術作品を集め展示する活動が、ここでは特に重要な業務と思っていますが、それ以上に、様々なプログラムを通して現代美術の存在理由や接し方を提示し、時代への視線を掴んでもらうところだと確信しています。そのためにも、事業プログラムとしてのアウトリーチ活動(広報やギャラリートーク等の伝える活動)を、より一層大事にする必要があると考えています。それは、お客様である鑑賞者が個々に見ることを通して考える時を持っていただけることにつながります。ですから知識で見るのではなく自らの力で鑑賞するために、体験として数多く経験していただくために足繁く通っていただく場所と思っています。 (鎌田)

*本ページの内容は、1995年6月1日発行当時のものです。



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