特 集
水戸アニュアル'95
『絵画考ー器と物差し』(2)
■副題「器と物差し」の物差しから考えたこと
この「絵画考」において、絵画についていくつかの肯定的な意見や絵画への期待、未来への展望が提示された。私自身、これまでは平面の中に閉じ込められた絵画には未来はないと考えていた。キャンバスのような四角の枠=自由な表現を制限するものから、脱出することが美術の領域を広げ、さらに進化させていくものであるというふうに漠然と感じていた。あるものを再現するといった意味においては、3次元に存在しているものを2次元に写しとらなければならないのだから、そこでは平面の限界というものが強く意識されるだろう。そこで逆に平面の優位性を強調しようとするならば、平面の純粋化へ向かったとされる抽象表現主義の作品のように単純な色彩、形態を用いた絵画となるのだろうか。抽象表現主義の問題は別として、平面性を限界と感じさせず、むしろ現代美術として意味を持ちうると理解させるだけの説得力のある作品と言説、そしてギャラリートークが観客に提示できるのであろうか。
東島毅「UV-88」(左) 「UV-86」(右)
ギャラリートークをする時に私が特に意識したことは、森司学芸員が巻頭言で述べた「絵画の作品を待望している状況」「画面の中に入っていける作品」「この手の作品が弱いと一刀断ちする基準こそが、問われるべき時期」という言葉だった。なぜにこの時期になって立体ではなく絵画の作品なのか。画面の中に入っていけるほど豊かなイメージ世界を想像させる作品が、今回展示されているとすれば、それはどれで一体なぜなのか。基準こそが問われる、このことは学芸員、評論家においては当然ながら、我々ギャラリートークをする者にとっても重要であると思われる。他の美術館におけるギャラリートークでは、主に歴史的評価の定まった作品を解説するのに対し、水戸芸術館においては、キュレーターの展覧会の企画意図や解説を基本としつつも、非常に新しい本当の現代美術を(もしかすると新作を)観客とともに考え、鑑賞する、という基本的なスタンスが存在するがゆえに、説得力のなさは如実に自分に跳ね返ってくるわけである。前述したような問いに対する回答を用意する必要性については、観客相手という点でキュレーターや評論家以上に切実な面をもっているかもしれない。今回の展覧会は、絵画だけでなくカタログに載せられている論文を絵画批評の物差しとして積極的に提示しようという、実験的な意欲的な展覧会であったと思う。絵画に対する基準が現在存在しない、その基準を提示しよう、そして絵画の未来へ繋がると思われる作品を展示しようというのだから意欲的なのは当然であるが。
テキストまでも展覧会の一部として提示されたが、私は石井弥夢氏の次の一節を積極的にとらえたい。「(作品は)個というところから出発することによって、はじめて有機的につながりあった世界を想定することができる。そこに多くの意味付けがなされ、多くの解釈が存在する。それらをひとまとめにして均してしまうのではなく、弾力をもったものとして把握することが要求されるだろう。」 作品の批評についてこの態度を基本としていくことは必要であると思うし、水戸芸術館のギャラリートークも、個人と個人とが有機的につながった多様性を保持していくことが、硬直化した作品解釈・鑑賞を避ける方法の一つであろうと考える。 (大和田)
*本ページの内容は、1995年6月1日発行当時のものです。
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