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"cafe168"準備開始(2)


■非日常的な生活の体験

 ここでもう少し、活動を長く続けられる理由を考えてみたい。災害におけるボランティア活動が「困ったときはお互いさま」という日本人的気質に基づくものと考えると、その活動は「日常的活動の延長」に近いものと思う。例えば、隣から「すいません、お味噌を切らしちゃったので貸して下さい」と来たときに「いいですよ。困ったときはお互いさまですから、気にしないでね」と味噌を差し出す行為に近いと思う。味噌を差し出したとき、「そのかわり...」という見返りを意識することはあまりないだろう。近所付き合いのひとつであり、その瞬間に暖かい気持ちになれるからである。しかし、毎日勝手口に来られたら、あなたは「いつまで借りれば気が済むの?いつ返してくれるの?」という思いと「近所付き合いだから、差し障りがあってはいけない」という思いの複雑な気持ちに挟まれてしまう。「困ったことは希にしか起こらない」から「お互いさま」になれる余裕があるのだろう。そして、暖かい気持ちになれることに『自分の中にある「有り難く思われたい」という欲望を満たすための活動』であることが見出されている。「日常的活動の延長」とはこのような事実を含んでいることを意味し、それはリアルな日常活動に近いため、日常的活動に限界が見えてくるのである。

 それに対し、美術教育ボランティアのような「自分のための活動」の場合、日常的活動の延長ではなく、「非日常的な生活の体験」である。何故、非日常的なのか。もしイタリアやフランスのように、「そこに美術がある」ということを気にしていられないほど美術に満たされた環境に生活している訳でもないし、自宅の壁や庭に美術作品を所有しても、毎日を忙しく過ごし、それらと接する時間や空間がなければ、生活の中に美術があるとはいえない。そして、日常的に美術について話ができる空間(コミュニケーションを得られる空間)がなければ、生活の中に美術は存在しないだろう。だから美術(とその周辺)に興味を持ち続ける限り、私たちは「美術教育ボランティア」というシステムで活動するための時間を作りだし、あくまでも自分のために活動を続けているのであろう。それが「非日常的な生活の体験」となるからである。そして「私と観客・私と作家・私とボランティアメンバー」など双方向的な刺激が、食欲をそそるキムチのように私たちを動かす。息の長い活動を続けるためには、その活動の「非日常性の有無と持続性」が左右するのではないだろうか。

 しかし、いつまでも活動に「非日常性」が存在するとは限らない。私たちにとって水戸芸術館に通うことが日常的活動の延長になったとき、非日常的な刺激に鈍くなるか、リアルな日常生活との葛藤が発生する。それを防ぐためには、活動に「新しい風」を取り込み、活性作用・自浄作用を持ち続けることである。新しい風とは、自分のための活動をしようという意志を持ち、その実現のために活動に参加する人たちである。その人たちが活動に参加するためには、システムに風穴を用意し、風穴にうまく風を取り込むための仕掛けが必要かも知れない。美術教育ボランティアは、この「風を取り込む仕掛け」を用意するため「ボランティア」という名称を捨て、「非日常的な生活の体験」を全面に出した活動を目指し"cafe168"へと進化し始める。

■"cafe"のイメージ

 今年で丸5年となる活動の中、活動内容の広範囲化による各自の活動負担や、活動メンバーの固定化による活動のマンネリ化、「ボランティア」という名称についての疑問などの現実的な問題が生じてきた。担当学芸員の中にも「はじめにメンバーを選んだことは、美術館を開かれた文化施設考えた場合、問題になるのでは」との疑問が湧いていく。そのような中、「もっと自分の好きなこと・楽しいことを、もっと自由に、そしてその楽しみをみんなと共有できたら」といった活動の指向性がボランティア・メンバーの一部と教育普及部門から同時多発的に発生した。これが"cafe思想"の始まりである。cafeに対する私の個人的なイメージは、Londonの現代アートの拠点の一つである ICA(アイ・シー・エー:Institute of Contemporary Arts)のカフェや、南カリフォルニアで「ビートニク」たちが活動しているカフェがあった。ICAでは、街並みのパブが閉まった後でも遅くまでいろんな人がいろんな話をしている。南カリフォルニアでは、現代のビートニクたちがカフェの片隅にあるアップライト・ピアノを弾きながら「ポエトリー・リーディング」を続けている。『あそこに行けば、何か楽しいことが始まっている、誰か楽しいヤツが集まっている。もちろん、自分がそこで何かしても構わない。そんな場所があってもいいなぁ』と。

 ここで"cafe168"という名称の由来を説明しておこう。cafeとは"CommunicationAccess ForEveryone"の略である。様々な人たちがアクセスし、コミュニケーションを作り出す場所(システム)というイメージを、19世紀末にアヴァンギャルド活動の拠点となったカフェに重ねているため、実際にはコーヒー等は出てこない。168は、ボランティア通信「168(いろは)」より受け継ぎ、現在の美術教育ボランティアが創り出したスピリッツを維持していくことを示している(もともとの「168」は芸術館の住所から来ており、現代美術の「いろは」に掛けて名付けられた)。

 このような「場(空間)」を求める私たちには何か「欲求」が存在するに違いない。この欲求とは何か、以下で考えていきたい。

■「繋がること」への欲求

 話は災害ボランティアに戻るが、「自分たちと何かが違う」と感じた災害ボランティア活動のなかで、改めて認識したことがひとつある。それは「人は自分を認めて欲しいと思い、それ故に活動する」ということである。それは先にも記したように、「被災者の方からありがとうという言葉を聞くと、また頑張ろうという気持ちになるんです」という言葉が発生することが「有り難く思われたいという欲望=相手に自分を認めて欲しいと思う欲望」を満たすことを指し示しているであろう。今までの話とまるで逆のことを言っているかも知れないが、これは災害ボランティアに限らず、美術教育ボランティアの活動でも存在すると思う。そしてボランティ活動に限らず、創作行為(この文章を書いている自分自身の行為も含まれる)、日常生活における活動行為にもそれは含まれていると思う。これらの活動における共通項目は「人と人との繋がり」であろう。災害ボランティアや美術教育ボランティアに人と人との繋がりを見いだすことは容易である。これらの活動は生身の人間がある空間・ある時間をぶつかり合って共有していく行為の連続である。また創作行為においても、美術・音楽・文学・演劇…等、表現メディアは違うが共通する核となるものは「自己の何かを誰かに伝えるために表現する」ことであろう。「自己の何か」とは、自分の感情・心情・権威・思想(考え・教え・主義・主張)などが当てはまるだろうし、「誰か」とは、愛する人・大嫌いなヤツ・知人・一般市民など、表現の内容に合わせた相手が当てはまる。日常生活においては「会話は何のために存在するか」と考えれば明かであろう。

 そして「人は自分を認めて欲しいと思い、それ故に活動する」ことは「人と人との繋がりを求めた活動=自己表現」に他ならない。当たり前なことと言ってしまえばそれまでだが、日常生活において、その当たり前と思うことがままならない状態であることも否めない。それ故、人は日常生活では満たされない繋がりを諦めずに求め、人を愛したり、ボランティアな活動をしたり、創作活動といった自己表現を続けていくのであろう。それらの表現行為を一言で表わす言葉は「コミュニケーション」である。このコミュニケーションを作り上げていく場(空間)こそが、"cafe168"というシステムが目指しているものである。

(西内 秀晶)

*本ページの内容は、1997年3月31日発行当時のものです。



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