Q―建築家として“芸術館”の構想をどうすすめるか?
まずはじめに、塔の設計から入るんですが、これは市制100年を記念する意味からも100メートルくらいのものをつくろうということで市のイメージとも一致して、三通りの設計図を作った。広場についても同じく三つの配置を考えた。それから建物も三通りの考え方―A劇場・音楽ホール・美術展示ギャラリーを一つの建物に収める。Bそれぞれを独立した建物にする。C三つの要素をつなぎ合わせる―にもとづいてラフ・スケッチを画いてもっていった。そして様々なメムバーの人たちに検討してもらって、それぞれA・B・C案三通りの組み換えをやって、もっともバランスのいいものに落ち着いた。つまり、もっとも基本的なことは、多目的ホールにしないということ、それはここ二、三十年の経験で分かってきたことなんです。ヨーロッパの伝統的な都市では、コンサートホール、オペラ劇場、ギャラリーというのは、それぞれ別個の建物として建てられ別々のシステムで運営されている。日本でいえば、歌舞伎と能の舞台と普通の劇場とは別になっている。そういうオリジナルな方向に戻すということ。結局、劇場、コンサートホール、展示ギャラリー、塔、広場、会議場、オルガンホール、パーキングエリア、これらを一つ一つ独立させたものとしてデザインして、ある範囲で連続しているという発想にもってきた。独立したものとしても使えるし、複数の組み合わせでも使えるというふうになっている。これが基本モチーフです。
そして次の段階で、これを使う運営委員(吉田秀和、中原佑介、鈴木忠志)の顔ぶれが決まり、ソフトの問題がはっきりしてきて、設計をさらに徹底して特殊化する方向にもってきた。これは今の日本の施設のあり方としてはいちばん適切な解答になるんじゃないかと思っています。というのは、東京みたいにホールも劇場も沢山できている都市に、さらに新しい何かをつけ加えようとすれば、たとえばパリのポンピドー・センターのように諸芸術を総合したり組み合わせたりというようなことを目玉にすることもできなくはないけれども、現実には、バラバラの運営になってしまっていることのほうが多いようだし、ハードウェアがソフトを中途半端に規制してしまうようなことは避けたほうがいい。しかしまあ、将来の可能性として試みられるような余地は残しておきたいですね。
A―水戸市は今では東京から1時間半ぐらいの圏内にあって、そう遠くはなくなっている。東京のある地域、たとえば多摩や八王子から日比谷あたりへ出かけてくるのよりは近いぐらいで、東京の一画にいるようなものですね。ですから、たとえば利賀村のように一晩二晩泊る決心をして行かなければならないというところではなくて、日帰りで行ける。しかしそれにはプラス・マイナスの両面があって、マイナスの面では、逆に水戸から東京へ出ていくことだし、プラスの面は東京から人を集めることができる、そういう位置的な特性があるだろうと思う。歴史的にも東京とはタイプの違う都市だということは、江戸以来の伝統としてあるし、東京にない特殊性というものをいろいろ組み立てられる。この芸術館は約100億円の建物ということですが、東京では100億ぐらいのものを建てても、周辺に与えるインパクト、影響力というのは、よほどのアイデアをもってなければ、ほとんど認められない。ぼやぼやしていると周りの類似の企画や施設との競争でなかなか一つのペースをきちんと保つような運営が困難です。つねに変化していくものを追いかけているところですから。それに対して、腰をすえて一つの目標を積み上げていって、それである芸術的な達成をするような場所として、東京から刺激を受けるけれども、同時に排除もできる、そういう位置関係においていい場所ではないか、といえますね。関東では、100キロから150キロ圏にある諸都市、宇都宮とか高崎なんかもそういう圏内に入ってきている。Q―現代美術の潮流と建築のヴィジョンについて
A―現代美術については、建築や美術の方からみると、今は転換期にあるといえます。一つの理由は、60年代までは共通のベースであったモダニズムに対して、70年代に入ってから20年くらいの間にポスト・モダニズムといわれる一種のリアクション、批判が起こった。その現象の一つは、いわゆるアヴァンギャルドが60年代まで旗印になっていたのが、アヴァンギャルドなし、すなわちユートピアなしで、何ができるかという別の形での問題提起をしたうえでの芸術創造がなされなくてはならなかった、ということだと思う。それに対して、ある種の近代批判というものも、そろそろ一区切りつくところまで来てしまったのではないか。ちょうどいまは、メインの潮流というのは消えてしまっている時期のように見える。つまり、誰かがこれを出せばそれを全員が承認するというようなことはなくなっている。いうならば、支配する様式というのはなくて、全てが小さな物語に解体されている。しかし、それさえも語りつくされたという時期にきていて、そうすると、次の方向としては、もう一ぺん大きな物語(グラン・レシ)待望論というのがあり、モダニズム復活論もある。そういう予測というか、一つの願望なのであって、現況はそうはなっていない。建築界でもポストモダニズムをもっと徹底してやろうとする地域あるいは人もあれば、それを全面否定したい人たちとに分かれている。いずれ二、三年たつとその区分けが明瞭になってくるかもしれない。少なくとも状況はつねに過渡的だといっていいかもしれません。私はその中で、私自身が60年代、70年代、80年代とやってきた仕事を考えてみると、建築家というのは仕事を発想した時と出来上がった時との間に数年のずれがあるんだけれど、だから今出来上がりつつあるのは80年代の前半に考えていたことの成果であって、今設計しているものは90年代の前半に出来上がるということになるわけで、この芸術館は80年代の終わりに出来るので、ある意味で、私の80年代の特徴をいちばんよく示している仕事になるだろうと思う。
この前に≪つくばセンタービル≫の時期があって、その延長から、若干変わりつつある将来の自分の方向が見えてるものとして現われてくるんじゃないかな。それで、ぼく自身についていえることは、十年ごとくらいの区切りで一つの方法と表現が次のフェーズに変わっていくという経験を経てきているので、この芸術館は80年代の区切りになると思います。その特徴というのは、70年代の仕事にはいろいろレッテルを貼られて、いわゆる≪レートモダニズム≫ということになっていますが、その理由は、抽象彫刻のような発想で、幾何学的な形を生のままで使ってきたというところにある。それに対して80年代の特徴は、幾何学的なベースは変わらないけれども、そこに建築の歴史を参照することによって建築的なふくらみを与えたいということがあって、建築的なディテールや部分的な装飾であったり、また材料の扱いや建築の形式そのものでもあったりしますが、つまり、抽象形態と歴史的な建築の参照とを組み合わせた性格をもっていて、それが私の80年代の仕事だろうと思うんです。それが水戸の芸術館の設計にかなり明瞭に現われているというふうに思います。90年代のことはよくわからないけれども、また70年代に戻って別の形をとるだろうというふうに言う人もいますけど、おそらく、十年か二十年前に戻ってそこからつくり変えるというのがアーティストの方法論のいわば常道ではあるんですよ。このあいだオーストラリアの建国二百年祭によばれて講演をしたのですが、そのときむこうの雑誌にとり上げられて、私はなんと≪アーキテクチャー・ピカソ≫というあだ名を頂戴して、磯崎はしょっちゅう変化しているというんですね、ピカソみたいに。思ってもみなかったレッテルだったけども、普通の人からみると、変貌するというのは、建築では意外に難しいことで、一つのスタイルをつくってそれをどんどんつきつめていくのが普通なんですが、私は一つのスタイルに固定したくないとつねに思っていて、逆にいえば一つの様式をきわめることから逃れたい、いつも変化する状態に自分を置いて仕事をすすめたいという気持ちでいるんです。それで、この芸術館は、私自身は80年代の文脈にあると思っていますが、もしかすると変わっていると見られるかもしれないですね。
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