会田誠
<題字・カットも> ……どれほど走っただろうか。遂に息が切れて満津子が 立ち止まったのは、街の喧噪が急に途切れて森閑とした、 広い並木の舗道だった。左右には放送局と競技場の魁偉な シルエットが、霧雨に煙った夜の闇にぼんやり浮かんでいた。
彼女は疲れた足の向かうまま、色鮮やかなタイトスカートの 汚れるのも構わず、近くの植え込みの縁に腰をかけた。 雨の中を走って来た彼女の頬はしたたかに濡れ、いまや 涙と区別はつかない。
彼女が物思いに耽る間もなく、とおくから水を跳ねて、
駆けて来る足音は目の前で止まった。彼女は地面を見つめた
ままそこに映る男の影が、一語も発せられず肩で息をして
いるのを見た。その悪意に満ちた情熱の不可解さが、彼女の
怒りに火をつけた。
「もう構わないでください。ほっといてください。私は
絵が嫌いなんです。憎いんです!」
男は呼吸の整わないままに応えた。
「どうして憎いん、ですか?」
そんなこと知っているんでしょうよ!睨み上げた彼女が
見たものは、意外にも当惑したように気弱そうな眼鏡の
奥の男の目だった。本当にこの男は何も知らないようだ…。
しばらくの観察で彼女はそれを理解した。しかしだからと
いって怒りが消えるわけでもなく、今までの取り越し苦労の
不毛感は彼女の物言いを投げやりにした。
「絵が描けないからよ。」
「そうでしょうか。絵は誰にでも描けると思います。」
男も負けずに間髪を入れずに応えてきた。
「描けない人間だっているわ。」
「それはきっとうまく描かなくちゃと思いこんでいるからです。
絵はどんな風に描いてもいいのです。」
「昔も同じ様なことを腐るほど聞かされたわ。でも
描けないものは描けないのよ。」
「じゃあこう考えたらどうでしょう。さっきお願いした
この絵の相談です。この絵をこのあとどう描いたらいいか
イメージしてぼくに教えて欲しいのです。絵は僕が描きます。
けれどもそれはあなたが描いたも同然のことなのです。
なぜなら絵はイメージする事が一番重要なことだからです。」
男は大事そうに抱えてきた例の抽象的な地獄絵図を、
再び満津子の前に示した。
「そんなこと知っているわ!だから、私は、絵をイメージする
こと自体できない欠陥人間なんです!」
遂に語気を荒げてしまうと、彼女は両手で顔を覆って
激しく首を振った。男も言葉に詰まり、二人の間には
重たい沈黙が流れた…。
「好きな絵は本当に一つもないのですか?」
しばらくして男は労るように訊いてきた。
好きな絵なんて!――いや、待って。そういえば、
好きな絵といえば――。
最近買って部屋に飾ってある一枚の複製画。街で見かけて、 奇麗な色彩に心が和んだ。描けるものならこんな絵が 描いてみたい。少しだけ、絵や美術というものと和解が 出来た気がした。
……。
彼女は顔を上げた。そこには諦め切った者の不敵な 笑みのようなものが浮かんでいた。
〈つづく〉