「日本ゼロ年」出品作家
1999年9月 水戸芸術館現代美術センター

会田 誠 (あいだ まこと)
1965年生まれ。91年、東京芸術大学大学院美術研究科修了。「日本画」「油絵」「現代美術」「アニメ」「マンガ」など、現代の日本に流れ込んでいる新旧のさまざまな表現の伝統を任意に選択し、掛け合わせることで、そういったジャンル分けや価値付けを無効化するような作品を制作している。また、「戦争画RETURNS」のシリーズでは、タブー視され封印されてきた戦争画の問題を取り上げ、戦後の日本の文化のあり方に鋭く、またアイロニカルに切り込んでいる。93年、グループ展「フォーチューンズ」(レントゲン藝術研究所、東京)で実質的にデビュー。94年、個展「ポスター」(同和火災ギャラリー、東京)開催。96年、グループ展「TOKYO POP」(平塚市美術館)に参加、また個展「戦争画RETURNS」(ギャラリーなつか、東京)、「NO FUTURE」(ミヅマアートギャラリー、東京)開催。97年、4人展「こたつ派」(同ギャラリー)を企画し、自らも参加、さらに松蔭浩之との2人展「美人画」(同ギャラリー)開催。98年、個展「パリ、津田沼」(同ギャラリー)。99年、これまでの作品を集めた個展「道程」(三菱地所アルティアム、福岡)開催。その他、グループ展多数。 著書に小説『青春と変態』(1996年、ABC出版)、漫画『ミュータント花子』(1997年、自費出版/1999年、ABC出版)、作品集に『孤独な惑星』(1999年、有限会社DANぼ)がある。

飴屋 法水 (あめや のりみず)
1961年生まれ。90年代前半にはコラボレーション・ユニット「TECHNOCRAT(テクノクラート)」の一員として血液、精子、菌などを用いた作品を通じ、95年以降は「動物堂」のオーナーとして稀少動物の売買や飼育を通じ、人間を含む生物の生と性(生殖)、そしてそれらを取り巻く社会のシステム(科学、技術、医療、経済、法律、他)を考察してきた。役者、演出家としても活動する。78年、唐十郎の主催する劇団状況劇場に参加。84年、東京グランギニョル結成、主に演出、音響、舞台美術を担当する。87年、飴屋法水・三上晴子共同企画「バリカーデ」(大崎アトリエ内公演)。90年、「TECHNOCRAT」結成、Dutch Life vol. 1「Contaminated」(1992年、レントゲン藝術研究所、東京)、Dutch Life vol. 5「Sex Apartheid」(1994年、「人間の条件」展、スパイラル、東京)、Dutch Life vol. 7「Public Semen」(1995年、アノーマリー2「909」展、レントゲン藝術研究所)、Dutch Life vol. 8「Public Semen」(1995年、「トランスカルチャー」展、ヴェネチア・ビエンナーレ)などの発表をおこなう。95年、東中野に「動物堂」開店。99年、同店をフクロウ専門店に改装。 映画「ラバーズ・ラバ」(1993年、福居ショウジン監督)参加、「SINO=TOGE・1999」(1999年、THE PIT[新国立劇場]、東京)出演など、映画・演劇活動も引き続きおこなっている。著書に『キミは動物(ケダモノ)と暮らせるか?』(1997年、筑摩書房)がある。

大竹 伸朗 (おおたけ しんろう)
1955年生まれ。80年、武蔵野美術大学卒業。拾ったゴミや印刷物などファウンド・オブジェを集積した作品のほか、アーティスト・ブックの制作や、著述、音楽活動など、既成の美術のコンテクストにとらわれない活躍で知られる。近年は「日本」を一つのテーマに、見慣れた、しかし奇妙な日本の風景を再考する仕事に取り組んでいる。82年、ギャルリー・ワタリで初個展。以来、内外で精力的に発表をおこなっている。90年以降の主な個展に、「大竹伸朗/網膜」(1993年、ギャルリー・ところ、東京)、「大竹伸朗:Printing/Painting」(1997年、CCGA現代グラフィックアートセンター、須賀川、福島県)、「新津―あいまいで私が日本」(1998年、新津市美術館、新潟県)、「大竹伸朗展 ZYAPANORAMA」(1999年、パルコギャラリー、東京)、グループ展に「ア・キャビネット・オヴ・サインズ」(1991年、テート・ギャラリー、リヴァプール/他)、「第1回アジア・パシフィック現代美術トリエンナーレ」(1993年、クイーンズランド州立美術館、ブリズベン)、「アウト・オブ・バウンズ:海景の中の現代美術展」(1994年、ベネッセハウス直島コンテンポラリー・アート・ミュージアム、 香川県、「時代の体温 ART/DOMESTIC」(1999年、世田谷美術館、東京)がある。レコード・CDに、JUKE/19による『JUKE/19』(1980年、自主制作、LP/1996年、タイムボム、CD)、PUZZLE PUNKSによる『パイプライン/ヤマンタカ日記』(1995年、UCA、CDブック)、近著に小説集『ネガな夜』(1998年、作品社)、エッセイ集『既にそこにあるもの』(1999年、新潮社)、作品集『ZYAPANORAMA 日本景』(1999年、朝日新聞社)などがある。

岡本 太郎 (おかもと たろう)
1911年生まれ。美術を狭い領域に閉じこめることなく、デザイン、著作から、CMへの出演まであらゆる方面で活躍した。縄文や沖縄論をはじめとして「日本」を深く考察した思想家でもあった。29年、両親、岡本一平・かの子の渡欧に同行してパリに向かう。グループ「アプストラクシオン・クレアシオン(抽象・創造)」に参加(37年脱退)、またシュルレアリストたちとも交わる。パリ大学でマルセル・モースに師事して民族学を学び、ジョルユ・バタイユらの哲学者とも交流した。40年、戦況が厳しくなるなか帰国。42年、招集。46年、復員。対極主義を唱え、48年、花田清輝らと「夜の会」を結成、独自の芸術運動を目指す。49年、「重工業」、50年、「森の掟」をともに二科展に出品。54年、ヴェネチア・ビエンナーレ参加。59年、長野県戸倉にモニュメント「動物」を制作、彫刻に本格的に取り組み始める。64年、東京オリンピック記念参加メダル制作、また国立代々木競技場に陶板レリーフとモザイクによる壁画をつくる。70年、日本万国博覧会シンボルゾーンに「太陽の塔」完成。79年、西宮市記念美術館、81年、山梨県立美術館他、91年、川崎市市民ミュージアム、 95年、広島市現代美術館で展が開かれる。その他、グループ展多数。96年、84歳で没。98年、旧アトリエ兼住居が岡本太郎記念館としてオープン。99年10月、川崎市岡本太郎美術館開館。現在入手可能な主な著書に、『今日の芸術』(1954年、光文社/1999年、光文社)、『岡本太郎の本』全4巻(1998-99年、みすず書房)などがある。

小谷 元彦 (おだに もとひこ)
1972年生まれ。97年、東京芸術大学大学院美術研究科修了。写真や木彫の他、毛皮、血液、毛髪など生体の一部を使った作品を制作、発表している。突き詰められた美しさと、奇形的な危うさが背中合わせで同居するアンビバレントさがその特徴である。95年、グループ展「POOL2」(レントゲン藝術研究所、東京)、96年、「Morphe '96」(スパイラル、東京)参加。97年、初個展「ファントム・リム」(P-HOUSE、東京)開催、鮮烈なイメージで注目を集める。また、グループ展「掌 -Works on the palm-」(レントゲンクンストラウム、東京)、「マーティン」(146 Top of Floor Brick Rane, アトランティス、ロンドン)、「空間の変容(彫刻のポテンシャル)」(東京芸術大学芸術資料館陳列館、東京)参加。98年、2回目の個展となる「トランスフィギュレーション」(レントゲンクンストラウム)開催、グループ展「リアリティ―タマ・ヴィヴァン '98」(多摩美術大学、東京)、「Presumed Innocence」(マレア・アルテ・コンテンポラネア、イタリア)参加。99年、「VOCA展」(上野の森美術館、東京)、「ファンシーダンス」(ソンジュ美術館/ソンジュ・アート・センター・ソウル、韓国)。

でき やよい
1977年生まれ。98年、京都芸術短期大学卒業。蛍光色を含んだ明るくポップな色彩で、超細密画を描く。フィンガープリントと細筆を用いて細かく描き込まれた友人やぬいぐるみの顔が、画面をびっしりと埋め尽くし、全体として巨大な人間の顔や、飛ぶ魚や、幻想の風景を出現させる。紙粘土を用いたオブジェの制作にも取り組んでおり、その宇宙人風のオブジェはなぜか「まっさん」と呼ばれている。96年、「アーバナート#5」入選。97年、「アーバナート#6」優秀賞/中部エリア賞受賞。99年、初個展「できやよい絵画展」(ギャラリー・トラックス、山梨県)開催。今回が、公立の美術館での初のグループ展参加となる。雑誌のイラストやさまざまなコラボレーションにも意欲を見せている。

東松 照明 (とうまつ しょうめい)
1930年生まれ。54年、愛知大学卒業。「地方政治家」「家」「占領」シリーズから、長崎、沖縄、そして「京」と「桜」のシリーズまで、戦後日本の風景を撮り続けてきたことで知られる。また、近年の「ニュー・ワールド・マップ」などのシリーズでは、人工と自然、虚構と現実の狭間にある独特の世界を鮮やかな色彩で描出している。54年、岩波写真文庫に勤務(56年退社)。58年、第1回日本写真批評家協会新人賞を受賞。59年、奈良原一高らとセルフ・エージェンシー「VIVO」結成(61年解散)。61年、長崎を取材、土門拳らと共著で写真集『hiroshima-nagasaki document 1961』(原水爆禁止日本協議会)を刊行。69年、初めて沖縄を取材、72年から73年にかけて那覇と宮古島に住む。74年、「New Japanese Photography」展(ニューヨーク近代美術館)出品、また細江英公らと「WORKSHOP写真学校」を開校(76年閉校)。75年、写真集『太陽の鉛筆』(毎日新聞社)刊行。81年、「いま!! 東松照明の世界・展」が3年間にわたり全国30カ所を巡回。87年、写真集『廃園』(PARCO出版局)、90年、『さくら・桜・サクラ 120』(ブレーンセンター)刊行。 近年の主な個展に、「SAKURA+PLASTICS」(1992、メトロポリタン美術館、ニューヨーク)、「東松照明写真展 インターフェイス」(1996年、東京国立近代美術館フィルムセンター展示室)、「東松照明展 さくら」(1998年、新津市美術館、新潟県)、「キャラクターP・終の住処」(1998年、epSITE、東京)、「日本列島クロニクル―東松照明の50年」(1999年、東京都写真美術館)がある。その他、グループ展、写真集等、多数。

成田 亨 (なりた とおる)
1929年生まれ。56年、武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)研究科修了。60年代のテレビ黎明期に、特撮番組「ウルトラQ」「ウルトラマン」「ウルトラセブン」のヒーローや怪獣のデザインを手掛け、その造形は今に至るまで日本の子どもたちを魅了し続けている。彫刻を専攻し、新制作協会で発表を続けた彼の怪獣デザインには、シュルレアリスムの影響を読み取ることができる。55年、新制作展に彫刻「男」を出品。以後71年まで同展に継続的に出品を続け、62年には新作家賞を受賞。54年、東宝映画「ゴジラ」のアルバイトに行ったのがきっかけで、映画美術を手掛けるようになる。60年、東映で特撮美術監督となる。61年、日本映画美術監督協会入会。65年、円谷特技プロダクション(現・円谷プロダクション)と契約、68年まで「ウルトラQ」の特撮美術監督、「ウルトラマン」「ウルトラセブン」「マイティジャック」の美術総監督を務める。68年、フリーとなる。70年、日本万国博覧会「太陽の塔」内部の「生命の樹」デザインに携わる(乃村工藝社)。72年、日本テレビ「突撃! ヒューマン!!」、特技全般を担当。78年、新東京国際空港開港式でアート・ディレクターを務める。 80年、絵画作品個展「南太平洋を描く」(新宿伊勢丹)開催。83年、バンダイフロンティア事業部の主催で特撮関係の仕事を中心に個展(フォラム六本木アネックス、東京)を開く。同年、『成田亨画集 ウルトラ怪獣デザイン編』(朝日ソノラマ)刊行。87年、渋谷道玄坂センタービルギャラリーで個展。以後、90年まで毎年、同ギャラリーで個展開催。90年、京都府大江町に「鬼のモニュメント」制作。93年、北上市「鬼の館」のためにレリーフ制作。著書に、『特撮と怪獣 わが造形美術』(1996年、フィルムアート社)、『特撮美術』(1996年、同)がある。

村上 隆 (むらかみ たかし)
1962年生まれ。93年、東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程修了(論文「意味の無意味の意味」)。日本人にとってリアルなアートとは何かという問いを、日本の伝統的絵画とアニメなどの現代の文化を同時に参照し、交錯させ、そこから新しい表現を産み出すことで、探究している。若手アーティスト集団HIROPON FACTORYを主宰、共同作業による制作の拠点とし、オリジナル・キャラクターの「DOB君」「HIROPONちゃん」等を絵画からバルーン、フィギュア、グッズまで自在に展開、世に送り出している。また、若手アーティストのプロデュースや展覧会企画にも積極的に携わっている。94年から95年にかけて、ニューヨーク滞在。以来、アメリカと日本を往来しながら制作を続けている。98年にはロサンゼルス、UCLAに客員教授として招かれた。国内での主な個展に、「賛成の反対なのだ」(1991年、細身画廊、東京)、「WILD WILD」(1992年、レントゲン藝術研究所、東京)、「なんでもない日、万歳!」(1993年、広島市現代美術館)、「明日はどっちだ」(1994年、SCAI THE BATHHOUSE、東京)、「バック・ビート―スーパー・フラット―」(1998年、小山登美夫ギャラリー、東京)がある。 ギラリー・エマニュエル・ペロタン(パリ、1995年/1997年)、ギャビン・ブラウン・エンタープライズ(ニューヨーク、1996年)、ブラム・アンド・ポー(サンタモニカ、1997年/1998年)、バード・カレッジ(ニューヨーク、1999年)など海外での個展も多数。主なグループ展に、「アノーマリー展」(1992年、レントゲン藝術研究所)、「ヒニクなファンタジー」(1996年、宮城県美術館、仙台)がある。「カーネギー・インターナショナル 1999-2000」(1999年、ピッツバーグ)出品予定。展覧会企画に、「エロポップ・クリスマス・イン・ナディッフ」(1998年、ナディッフ、東京)、「東京ガールズ・ブラボー」(1999年、同)、作品集に『ふしぎの森のDOB君』(1999年、美術出版社)がある。

ヤノベ ケンジ
1965年生まれ。91年、京都市立芸術大学大学院美術研究科修了。サヴァイヴァルをテーマに、奇妙で多くの場合実際には役立たないマシーンをつくり続けている。それらは、未来の廃虚を見つめる意識と、遊園地の乗り物の記憶、そしてマンガやアニメなどのサブカルチャーの影響を受けた造形感覚が、独特の仕方で結び付き、産み出されたものである。90年、アートスペース虹(京都)の個展で、「タンキング・マシーン」を発表。91年、個展「ヤノベケンジの奇妙な生活」(キリンプラザ大阪)開催。92年、水戸芸術館でのアーティスト・イン・レジデンス「妄想砦のヤノベケンジ」でワークショップを1カ月占拠する。同年、「アノーマリー展」(レントゲン藝術研究所、東京)、「アートナウ '92」(兵庫県立近代美術館、神戸)、93年、「クロノスの仮面」(北九州市立美術館)、94年、「アートラビリンス」(岡山県立美術館、岡山)など、グループ展に参加。94年、ベルリンに移住、3年ほど滞在する。95年、ギャラリー・エマニュエル・ペロタン(パリ)、ギャラリー・イム・パークハウス(ベルリン)で個展。97年、アトムスーツを着てチェルノブイリを訪問。同年、これまでの作品の多くを集めた個展が、サンフランシスコのセンター・フォー・ジ・アーツ・イェルバ・ブエナ・ガーデンズで開催される。98年、個展「史上最後の遊園地」が国内3カ所(キリンアートスペース原宿、東京/キリンプラザ大阪/三菱地所アルティアム、福岡)を巡回。99年、「共生する/進化するロボット」展で人工知能を持つロボットとの共同生活を試みる。また、個展「ルナ・プロジェクト−エマージェンシー・ショッパーズ−」(現代美術館・名古屋)開催。

横尾 忠則 (よこお ただのり)
1936年生まれ。デザイン、美術、著作、コレクション、メディアへの出演、さらに最近は極私的マガジンの編集まで、ジャンルにとらわれない縦横無尽の活動で「美術」の観客に限らず広く一般に知られる、スター的存在である。その絵画や展示は、物語や記憶そして時に実際のコレクションの集積から自在にイメージを汲み取った、イマジネーション豊かなものであり、観客に直接語りかけてくる強さをもつ。55年、兵庫県立西脇高校卒業後、デザインの仕事を始める。60年、上京、日本デザインセンター入社(64年退社)。66年、南天子画廊で個展。唐十郎の「状況劇場」、寺山修司の「天井桟敷」のポスターを制作。67年、ニューヨーク近代美術館にポスター15枚がコレクションされる。68年、「ワード・アンド・イメージ」展(ニューヨーク近代美術館)、69年、「第6回パリ青年ビエンナーレ」参加。72年、ニューヨーク近代美術館、74年、アムステルダム市立美術館で個展。74年、初めてのインド旅行。80年、ニューヨーク近代美術館でのピカソ展に衝撃を受ける。81年、それまでのポスター、版画等をほぼすべて集めた回顧展(渋谷西武、東京/他)開催。83年、西宮市大谷記念美術館、 84年、西脇岡之山美術館で個展。87年、81年からの画家としての作品を集めた「横尾忠則展 ネオロマンバロック」(西武美術館、東京/他)開催。91年、佐賀町エキジビットスペース(東京)、93年、池袋西武サロンフォーラム(東京)他で個展。97年、初期からの絵画を集めた回顧展(兵庫県立近代美術館、神戸/神奈川県立近代美術館、鎌倉)開催。1998年、「横尾忠則の快美王国」(ラフォーレミュージアム原宿、東京/他)開催。グループ展、著書、作品集多数。自伝に、『横尾忠則自伝 「私」という物語一九六四―一九八四』がある。


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