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ミニ・レクチャー
ピアノのための公開セミナー 講師:園田高弘
第12回 楽譜について (2) 2000年10月 7日(土)

今日は昨日に引き続き「楽譜について」お話しします。 昨日は楽譜というものは非常に不完全なもので、印刷(出版社)の便宜上、沢山音符のあるところは拡大し、 休止符のところはつめて、しかも黒白で均一に書かれている。 従って、音符から受ける印象というのは非常に大雑把なものであって、絶対的なものではないということをお話ししました。 今日はそこから先に進んで、少し難しいお話しになるのですけど、楽譜というものから更に何を読み取ることができるか、 ということをお話しします。

ある指揮者のお祖父さんの話なんですが、その方は古書の収集をされていた。 そのおじいさんが亡くなって遺品を整理していたら、 その中に京都の石庭の精密な鳥瞰図(上から見た図面)がでてきた。それは非常に大きなものだったのですが、 書かれている内容を見てさらにびっくりした。 その図面を見ると、限られた面積の庭の中に、どこに大小の石を配置したら、 その空間がどういう風に響きあうかということが、綿密に計算されて設計されているということがとてもよく理解できる。 パーッと石庭を見るのとは大きな違いで、やはり芸術作品というものには、 初めにそうした設計があるんだ、ということをその時痛感したと言うんです。 それを聞いているうちに、「しかし音楽だって同じではないか」という話しになったんですね。 音楽を考える際も、まずは楽譜、つまり音符を見ることから始まる訳です。 その際、それを客観的に、鳥瞰図のように上から眺める必要があるのではないか。 つまり、どこに何があるということが、ちゃんと頭の中に観念的に入っていなければいけないのではないかということになりました。 そういう話しをしているうちに、それよりも大事なことがもっとある。 今は上から見たんですが、地形なんかでも山があったり谷があったり、平らなところがあったりして、 さらに湖があり川が流れて、山岳地帯になっていくというような、 横から見た図面というのもありますね。その地形の起伏というのは、高いところと低いところというだけではなくて、 ゼロから下ということもあるはずです。 そういう風な設計というものが、音楽にもありはしないかという話になりました。 そして、まさにそれがもっと大切なことなのではないのかという結論になったんです。

なぜそうなるかと言うと、音楽は時間と共に進行していく訳ですね。 簡単に言えば、序奏があって、主題が提示されて、発展があって推移があって、時に停滞があって、 さらに劇的な変化があって終結を迎える、といったように、いろいろな作品によって千差万別な構成の仕方がある。 それに目が向かないで、音をただ並べていくだけでは、絶対に作品の再現にはならないということです。 そしてピアニストは、それを1人でやらなければならない。楽譜を両方から読み取るということ、 つまり鳥瞰図のように上から見て、どこに何があるのかということと、横から見て、どこが山なのか、 どこが水面下なのか、谷なのか、そしてどこに一番険しい山がくるのかということを見極めていないと、 作曲家の作品を再現、再構築するということにはならないということなんです。 これがピアノ・ソナタの場合には、各楽章の配置ということにつながる。 同じように並んでいることは決してないはずです。 1楽章が激しければ、2楽章はその対比のように静かになる。或いは間奏というのはちょっとした谷間かもしれない、 そしてまた終楽章につながる、というような具合ですね。 指揮者が交響曲という膨大な作品に挑戦する場合にも、これが1番のキーポイントになる訳です。 だからベートーヴェンは難しいのであり、ブラームスが難しいのであり、 シューベルトやブルックナーは手がつけられないのです。私は正直に言って、 古今の名指揮者をずっとヨーロッパで目の当たりにして、「指揮者にならなくてよかったな」と思いました。 あれは大変な作業だし、大変な哲学が必要だと思う。 自分の音楽感の集約というのがでてこないとですね、 あれだけの古今の名オーケストラを指揮するのは難しいということを身に沁みて感じました。 学校を出てから外国へ行って、ベルリン・フィルのコンサートを最前列に座って、 クレンペラーなんていう人の指揮を見ているときに、 鳥肌が立つくらいびっくりした経験があるんですね。 それはともかくとして、ピアノでは音符からそれを読み取らなければならない。それは生徒にはなかなかできないことなんですね。 ではどうしたらいいのかというと、やはり先生が音楽談義なりを通して、 それを伝えなければならない。 そして生徒がイマジネーションを働かせて、そういうものかなぁ、楽譜に書かれていることだけじゃないんだなぁ、 という思いが湧いてこないと、先へ行かないと思う訳です。

次に、音楽を少し難しく、現象という面からとらえて考えてみましょう。 昨日、音符に濃淡をつけて、メロディーは濃く、伴奏は薄墨でというように楽譜が書かれていれば、 視覚的に見てメロディーの方が重要だということがすぐ分かるというお話しをしました。 ところがそのメロディーも、始まるときは薄墨であり、だんだんに色が濃くなっていけば、 それに従って音楽のテンションがどこにあるかということも分かるはずです。 そういうことを現象ということに置き換えてみると、例えば、雲が初めははっきりしないような形をしている。 それがだんだん凝集されて1つの形になっていく。 しかしそれは止まってはいなくて、やがてだんだんに解体していき、 ついには消滅するかもしれないというひと通りのプロセスがある。音楽もまさにそれと同じで、 ある1つの主題の提示があって、それが繰り返されるときには、 全く同じ様には繰り返されていないんです。つまり繰り返すということは、モーツァルトでも、ベートーヴェンでも、 ショパンでも、そこに強調がある訳ですね。 もうひとつ踏み込んで、同じように繰り返す場合もあるし、ショパンのように繰り返す度ごとに装飾がついてくる場合もある。 それを同じようにとらえ、演奏しているのでは駄目なはずです。 だから音楽の現象というものに目が向かないと、絶対にうまくいかない。

さらに音楽には調性感というものがあります。 絶対音感などというのが流行っていますが、よく分からない人がよく分からないことについて喋っていたら、 どういうことになるでしょうか。これでは結局分からず仕舞ですね。言葉がひとり歩きしているんですから。 「音感」とはどういうことかと言うと、 例えば「色彩」ということを考えてみてください。 赤とか緑とか黄色とか、分かりやすい極端なものではなくて、 淡いオレンジであるとか、薄い草色であるとか、燃えるような赤だとか、 深い青であるとかです。 これらを同じように感じる人は絶対にいないはずなんです。 ところが音感ということになると、 すべての調子に移行することができると短絡的に思いがちです。 その結果、ハ長調も変ホ長調もみんな同じにとらえているのではないでしょうか。 しかしそんなことは有り得ないんですね。これは永久に難しい問題なんですが...。 音感のことについては、また後でふれたいと思います。 その前に、表情(エスプレッシーヴォ)ということにつて考えてみましょう。 音楽では、ほんのちょっとしたところに『エスプレッシーヴォ』と書いてある。 これが非常に曲者でね、例えば、歌うと言っても、「ほのぼのと心が温まる」という表現がありますね。 「胸が熱くなるように」これもそのひとつの感情、エスプレッシーヴォで、 「微笑む」とか「にんまりする」も、エスプレッシーヴォなんです。 それから、「転げるような愉快な表情」それもエスプレッシーヴォ。 このように、何でもエスプレッシーヴォという言葉で括ることができてしまう。 だから、「エスプレッシーヴォに歌ってくれ」と言われても、どういう風に歌うのか、 ということがより具体的に指示されないと、本当は分からない。 それから、『アパッシオナート・パッショネイト(情熱)』というのが、 よくベートーヴェンやブラームスに出てきますが、 「血が逆流するように激怒する」或いは「深い絶望感」、「断固たる決意」、これらはみんな全部パッショネイトなんです。 曲の場所によってそれぞれがどのようなパッショネイトなのかが決定的に示されていないと表現できない。 しかもシューマンのクライスレリアーナのような作品では、「夢敗れた大敗感」や「軽い失望」や「はぐらかされた気持ち」などは、 そういうものがエスプレッシーヴォとパッショネイトと、色々な形でもって絡み合っていく。 これは非常に分かりにくいんですね。シューベルトもそうです。 モーツァルトにも多少そのような兆候がある。 「激怒する」や「愛を語る」など、極端な場合には簡単に分けることができるけれど、 その中間にある表情の変化というのは非常に難しい。 それが楽譜では、殆どエスプレッシーヴォとか簡単な言葉でしか書かれていません。 したがって、それがどんな種類のエスプレッシーヴォなのかということに思いが至らないと、 作曲家の意図したことが本当は分からないのです。

調性のことに話をもどします。作曲家には好みの調性がありまして、 例えば、ベートーヴェンならば変ホ長調。これは英雄的な調です。 また変イ長調はベートーヴェンの昔からの憧れの調性で、母性を感じるような調、ハ短調は悲劇的、というように、 調ごとに色があります。 そういう色は作曲家を超えてもひろがりを持っています。例えばブラームスでも、同じ様な調性感が漂っているんですね。 これは置き換えることができないものです。 そのような調性に対する感性(絶対音感とは言いませんが)が育たないことには、音楽家にはなり得ない。 ショパンだったら、好きな調性は嬰ハ短調。そしてそれが変換されて、変ニ長調、或いは、 嬰ヘ長調や変ト長調という調が浮かんでくる。なぜそんな複雑な調性が好きだったんだろうと思い、 当時のショパンが弾いていたエラールというピアノを弾いてみると、 それが分かるんです。 銀色みたいなくすんだ音がするんですね。それがショパンはすごく好きだったんでしょう。

そういうことは、すべて譜面に書かれていることなんですね。 作曲家たちは自ずから自明のこととして、楽譜の上に調性を選び、和音と共に書いています。 だから、譜面を深読みして読み取る、ということがいかに大切か。 楽譜は単に黒白の玉が並んでいるだけではないんです。それは誠に不完全な形で便宜上並べられてはいるけれど、 ほんの手掛かりにすぎない。その中にあるものが何だということに関心が及ばないと、 ただ音を並べただけになってしまうということなんです。 日本の音楽家が一番苦労して学ばなければならないことは、このことなんですね。 私だけがそういうことを説明しているのではなく、外国の人達がそうやって築き上げてきたものを、 我々は今理解しなければならない。 それが、楽譜にまつわる一番の問題ではないか、と思います。



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