ACM劇場プロデュース公演
泣かないのか? 泣かないのか 一九七三年のために? --2002
清水邦夫と蜷川幸雄が<新宿>の街に贈った最後の作品が30年ぶりに甦る。
路地裏の銭湯で見たあの血と汗と涙にまみれた演劇ショーは幻影だったのか、それとも2002年を映し出す真実だったのか。
2002年1月18日(金)〜1月20日(日)
2002年1月25日(金)〜1月27日(日)
2002年2月 1日(金)〜2月 3日(日)
金曜日・土曜日=19:00 日曜日=16:00 (開場は開演15分前)
作:清水邦夫/演出:松本小四郎
出演:鳥山昌克(劇団唐組)、稲荷卓央(劇団唐組)
名取哲(ACM)、佐藤信郎(ACM)、塩谷亮(ACM)、稲津敬太(ACM)
遠島立夫、小林抄織、小原梨紗(一般選抜3名)
五十嵐紀代美、井上直子、今瀬寛子、小黒英子、子安良江、佐藤純子、鈴木美和子、丸藤規代、山口端代、山下千明、青山勇気、長谷川慎、矢野倉隆、山口昌嘉(オーディション選出14名)
佐藤誠(演劇集団「風の街」)、沢田考司、江花渉(茨城大学演劇研究会2名)
会場:水戸芸術館ACM劇場
料金:(全席自由) 一般\2,000 学生\1,000
*学生券は水戸芸術館のみの取り扱いとさせていただきます。
チケット発売:2001年12月 1日(土)
・館エントランスホールチケットカウンター(9:30〜18:00、月曜休)
・館チケット予約センター Tel. 029-225-3555(9:30〜18:00、月曜休)
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ATM速報受信のお客様のご予約は、メールでも承ります。(13:00〜)
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チケットぴあ Tel. 03-5237-9988
作品解説・インタビュー:水戸芸術館ACM劇場芸術監督 松本小四郎
・・・ 物語 ・・・
場所は東京、時代は1973年。闇のなかで少年たちが、「夜をのがれて/路地を曲がれば/そこはうわさの銭湯/今日を限りの/少年たちがあふれるあの白い肌の銭湯..... 」と歌いだす。
すると、路地裏の銭湯が現われる。男が身体を洗っている。
彼は某高校の社会科の教師近藤である。そこに一人の青年が入ってくる。
教師は青年に「やっぱりきみじゃないか」と話しかけるが、青年は「人違いだ」という。
教師は薔薇紅の校庭が生徒たちの血で染まったあの日のことを語り出す。青年はあの日のことを聞こうとしない。
すると、顔や頭から血を流し、衣服をひき裂かれた怪しげな集団が銭湯へやってくる。
残酷ゲイボーイ・ショーの一座「責縛座」の面々である。
彼らは青年と教師を無理やり残酷ショーの舞台に上げる。
青年は荒縄で縛られ、吊るし上げられ、鞭打ちショーを演じさせられる。
突然、青年は絶叫する。その瞬間、あたりは一変する。
青年は思い出す、校庭から逃げ出した仲間たちの名前を言えと拷問を受けたあの時を。
それをきっかけに、舞台は銭湯から劇場へと変わり、演劇というショーが始まる。
『真情あふるる軽薄さ』『想い出の日本一萬年』『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』『ぼくらが非情の大河をくだる時』の劇的な場面が次々に上演される。
だが、ショーが終わると、おびただしい老婆の死体が横たわっている。
責縛座の座長お竜がショーが裏切った老婆たちだと告げる。青年と教師、愕然とする。
死んだ老婆のなかに銭湯の白老婆がいたからである。
なつかしのショーを演じるなかで、彼らは老婆たちを殺してしまったのである。
青年は教師を責める、教師は青年に愛を告白する。
そして、二人はいつ果てるとも知れぬショーを始める。
・・・ 時代背景 ・・・
1968年、演出家蜷川幸雄は、劇団「青俳」の俳優岡田英次、真山知子、蟹江敬三と石橋蓮司以下の若手研究生たちと「現代人劇場」を結成する。
翌年69年に清水邦夫作『真情あふるる軽薄さ』をアートシアター新宿文化で上演。
この作品によって、清水・蜷川コンビによるアートシアター新宿文化の演劇がスタートする。
当時の新宿文化は60年代の世界的な映画作家の作品を次々に上映する一方で、大島渚、篠田正浩、吉田喜重など日本のヌーヴェル・ヴァーグを代表する映画作家を世に出していた。
そのデビュー作となった『真情あふるる軽薄さ』は鮮烈なスキャンダラスな舞台となり、多くの文化人や若い演劇ファンが清水・蜷川コンビの演劇に注目した。
舞台装置は階段、そこに何かのチケットを買うために行列がいる。
そこへ若者が毛糸編み機の箱を背負ってやってくる。
彼は行列に悪態をつく。そして毛糸編み機の箱から機関銃をとりだし、彼らを撃ち殺す。
が、彼らは死なない。死んだまねをしているだけである。これはゲームである。
若者と行列は死んだまねゲームを繰り返す、すると警備員(機動隊員)が現われ、若者を袋叩きにする。
これもゲームである。だが、最後に少年が現われ、若者と行列に向かって機関銃を乱射する。
その瞬間、ゲームという芝居が終わる。
『真情あふるる軽薄さ』はそれまでの現代劇には見られなかった、時代の雰囲気をダイレクトに映し出した斬新な作品として高い評価を得た。
その後、清水・蜷川コンビは『想い出の日本一萬年』(70年)『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』(71年)『ぼくらが非情の大河をくだる時』(72年)をアートシアター新宿文化で上演し、清水は『ぼくらが非情の大河をくだる時』で岸田國士戯曲賞を受賞する。
だが、清水と蜷川のアートシアター新宿文化の時代は73年に幕を下ろす。
『泣かないのか? 泣かないのか 一九七三年のために?』はその最後の作品であり、ひとつの時代の終わりを痛切に感じさせ、騒乱の時代の葬送を見つめるように観客たちは舞台を見ていた。
・・・ 演出ノートとしての作品解説 ・・・
『泣かないのか? 泣かないのか 一九七三年のために?』は73年の初演以来、三十年間一度も再演されなかった。
作品が時代とともに封印されたからである。
今回、ぜひ再演したいと思ったのは、この作品が2001年という時代を予感させるような普遍的なテーマを描いているからである。
アートシアター新宿文化の時代に清水邦夫が書いた作品のなかで、もっとも時代というものを意識し、さまざまな手法を使って70年代という時代を色濃く映し出した作品が『泣かないのか? 泣かないのか 一九七三年のために?』である。
青年と教師は、70年代初めに高等学校で吹き荒れた学園紛争を経験した生き残りであり、「責縛座」の面々は、60年から70年の十年の学生運動を生きてきた集団であり、彼らも死ぬこともできずに生き残ってしまった人間たちである。
彼らが舞台で繰り広げる残酷ショーは、見世物であると同時に、その十年の歴史を総括する劇になっている。
そして、その歴史が何であったのか、作者は「責縛座」の座長お竜にこう言わせるのである --
「ショーがこの老婆たちを裏切ったのさ。だから永遠の恨みをこめて自らの首をくくったんだよ。なつかしのショータイムからこぼれ落ちた、たった一つの真実かも知れないねぇ」。
この一節は、三十年の歳月を経過したいま読むと、じつに象徴的な内容を含んでいる。
私たちは、この老婆の死が73年 1月 1日、東京拘置所で自殺した連合赤軍のリーダー森恒夫の死を暗示していることに気づく。
演劇も学生運動も闘争も、しょせんショーでありゲームにすぎない、そのなかで何人もの人間が死に、彼らの死を悔いてひとりの男が自殺したのである。
私たちは、この73年を境に口を閉ざし、過去を忘れて経済的繁栄を謳歌してきた。
80年代のバブル景気はまさにその象徴的な十年といっていい。
だが、90年代に入ってバブル景気がはじけ、社会的構造の歪みに気づいたとき、私たちはいまを生きることに疲弊し、先の見えない時代に絶望し、懸命に覚醒しようとしている。
『泣かないのか? 泣かないのか 一九七三年』はそうした時代を予言していた。
この作品の基調音を奏でているのは絶望と覚醒である。
絶望を生きるのは教師であり、覚醒を生きるのが青年であり、彼らがはげしく衝突するのである。時代の終焉に絶望し、喧騒から醒め、未来の見えない現在を狂おしく動きまわる青年と教師から悲痛な叫びのようなものが聞こえてくる。
その叫びが2001年にふたたび聞こえてきたといったら誇張になるだろうか。
ニューヨークの貿易センタービルの悲劇は、21世紀は新しい時代の始まりではないことを予感させたのではないだろうか。
70年代を直視してこなかった私たちの奥底にひそんでいた<不安>が世界的に波及する激動の時代の始まりのように思えてならない。
私たちはいま、世界中で絶望し覚醒する多くの人々を見なければならない。
そして、1973年のために泣いた作者と登場人物たちがいま私たちの前に現われなければならないとしたら、私たちもまた2001年のために泣かなければならないからではないだろうか。
今回『泣かないのか?泣かないのか一九七三年のために?--2002年』とタイトルをつけたのは、2002年 1月の舞台で私たちは「泣かないのか?泣かないのか二○○一年のために?」といいたいと思ったからである。
・・・ 清水邦夫インタビュー「アートシアター新宿文化の時代」 ・・・
--最初の作品が『真情あふるる軽薄さ』ですよね?
清水 アートシアター新宿文化の支配人の葛井欽士郎さんから、映画館が終わったあと、つまり午後十時以降に一時間から一時間半くらいの芝居をやってもいいというお話があったんです。ただ問題は、映画のスクリーンが固定してあって、その前の奥行約三メートル弱の細長い空間で芝居をやらなければならなかった。非常に困ったんですけど、蜷川幸雄と話しているうちに行列の芝居なら横に並んでなんとかいけるんじゃないかって。それが『真情あふるる軽薄さ』なんです。
--いま思い返してみてどうですか?
清水 行列があって、そこになぜか人々が大人しく並んでいて、それに苛立った若者が暴力を働くというシチュエーションは今も通じるような気がします。ただ、行列のなかで交わされる言葉、あるいは行列を罵倒する言葉そのものが古くなっている。その時代々々の言葉を作品はやっぱりもっている。だから、去年の再演のとき、最初そのへんのことに非常に抵抗があり、少し直しました。
--でも『真情あふるる軽薄さ』は二度と書けない作品じゃないですか?
清水 そうですね。蜷川幸雄の初演出ということもあったし。僕が「行列の芝居はどうだろう」っていうと、二、三日後に「ちょっと会おう」ということになって、喫茶店へ行ったら、彼は階段の模型と紙でつくった人形を沢山もってきたんですね。それで、「誰かが怒鳴ったり、暴力をふるったりすると、行列はこういうふうに変わるんだ」って説明するんですよ。まだ本ができていないうちに、行列があれこれ変化していく。正直いうと、僕はとても触発されたし感動しましたね。
--観客の反応はどうでしたか?
清水 これはちょっと大変でしたね。公演が評判を呼んで、ある日行ったら、映画館の周りに長い長い行列ができちゃって、少しオーバーな言い方になりますけど、どこまでが出演者でどこまでがお客なのかわからなかった。演劇というよりは何か不思議な事件が起きたという感じがしましたね。
--そのあとが『想い出日本一萬年』でしたよね?
清水 舞台の奥行きが三メートルしかない舞台でやれる芝居というのがなかなか思いつかなかった。蜷川がせっつくから、苦しまぎれに「植物園にしたい」っていたんですよ。彼はすぐに、どこかへ行って木を切ってきて植物園の準備をしちゃったんです。それで一週間くらいして、僕が「あのアイデアやめた」っていったら、怒りました、本当に…(笑い)…。そこで二人であれこれ考えて、その木を使って卒塔婆の山をつくろうということになった。卒塔婆というのは死人たちのお墓ですよね。彼は「とりあえず、そこにやって来た人が勝手なことを喋りだしたらどうだろう」といったんですね。その言葉がとても僕を自在にしてくれた。それぞれが勝手なモノローグを始める、ぼくが作ったモノローグもあれば即興のセリフもある。もちろん、後半少しドラマ的にしましたけど。だから、これも演出家蜷川のヒントでなんとか舞台化できたわけです。
--『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』に登場した老婆というのは?
清水 家族っていうのは、父と母がいて、その上に祖父と祖母がいるという基本的な形がありますが、当時、僕のイメージのなかでは、親父やお袋の世代が信用できないという思いがあった。ただこの作品でお婆さんだけにしたのは、やっぱりお爺さんはあんまりセクシャルじゃない。お婆さんが僕のなかでは一番艶やかでバイタリティがある感じがしたんですね。やっぱり父親の世代をどっかで憎悪していましたね。これは青春期に誰もが感じていることじゃないですか。振り返ってみると、あの頃の僕の作品の八割は、親父はいつも悪者で登場しましたね。つまり否定すべき存在として出てきた。
--『ぼくらが非情の大河をくだる時』のとき何があったんですか?
清水 「清水は油断すると閉じていく、俺は逆に何とか開いていくようにしたい」というのが蜷川幸雄の口癖でしたね。『ぼくらが非情の大河をくだる時』で岸田國士戯曲賞をもらいましたけれど、彼のいうのが当たっていたのは、それまでの作品と較べるとどこか閉じるようになっていた。つまり戯曲として逆にある定型をなし始めちゃった。それで、また引きもどそうということで、僕は『泣かないのか?』を『非情の大河』とは違う作風でもう一度書こうとしたような気がしますね。それはもちろん蜷川幸雄のサジェスチョンもあったような気がします。
--『泣かないのか?』についての思い出は?
清水 あの頃いつも蜷川幸雄が僕に刺激を与えてくれた。「風呂場でいこうかなぁ」っていうと、すぐに「残酷ショーができるな」とか、「水飛沫はいいなぁ」とか、彼はヴィジュアルなところから入ってくる。記憶はさだかじゃないけど、もうこれが最後だということが二人のなかでほぼ了解ずみだった。『非情の大河』がどこかちょっと整いすぎていたので、もっとハチャメチャにしたいというか、普通の芝居ではやれないことをやってみたいということがあった。これがこの劇場での最後の作品だということを意識したために、何か日頃の自分のキャパシティより飛び跳ねたいという気がありましたね。もしかしたら、芝居の台本を書くのはこれで終わりかなという、思いがえらくつよかった気がしましたね。
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