[審査員選評]            

磯崎 新


ヴラジーミル  何かしゃべってくれ!
エストラゴン  今探している。(長い沈黙)
                           『ゴドーを待ちながら』サミュエル・ベケット

 この科白が歴史的に構築されてきたドラマを崩した。
 何もしないことが、時代の気分になった。その後、3世代の世界演劇人は崩壊したドラマの瓦礫をひろうことから出発することになる。ポストドラマ・ドラマの時代が今日まで続いている。
 堀真理子は演出メモをテクストクリティックしながら、演出家「ベケット像」を描きだすのに対し、古川美佳は「慰安婦像」をポスト・コロニアル・ジェンダー問題として浮ばせる。同じくカルチュラル・スタディであるが、こちらにはポリティカル・コレクトネスとしての視点がみえる。金芝河が恨(ハン)を語る。朝鮮半島では、この枠組みが激変しているためではないか。
 瓦礫をひろう行為だけをやって何もつくらないベケット ―「非」
 抑圧する旧制度に対抗して、静かに意志表示するローソク・デモ ―「反」
 最後に残された二冊を比較して、私自身は冷戦終結までは「反」を、その後は今日まで「非」を方法にしてきたことに気付く。今回は、私個人のノスタルジアとして「非」の側をえらぶことにする。

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片山 杜秀


 「木のほかは何もかも死んでる」。『ゴドーを待ちながら』の幕切れ近くのヴラジーミルの台詞だ。ヴラジーミルとエストラゴンはゴドーを待っている。だが来ない。二人は木にズボンの紐をかけて首を吊ろうとする。だが失敗。二人は自殺を明日に延ばし、ゴドーをなお待つことにする。
 これはいったい何? 著者の読みはラディカルだ。ベケットの『ゴドーを待ちながら』に続く戯曲は『クラップ最後のテープ』も『勝負の終わり』も『しあわせの日々』も「地球上に生き残った最後の人間たち」を主人公にするが、ベケットは既に『ゴドーを待ちながら』でも「ポスト・カタストロフィ的な世界を想像していたことが推察できる」と。
 なるほど。「木のほかは何もかも死んでる」ということは、植物のほかは人間も動物もほとんど滅亡しているということなのだ。恐らく核戦争で。そう、『ゴドーを待ちながら』は1953年に初演された芝居。翌年にはアメリカがついに水爆実験に成功する。米ソ冷戦と核兵器開発競争の下を生きる人間の根源的不安の尖鋭な表現として『ゴドーを待ちながら』は読み解ける。そしてその根本には、ベケット10歳のときのトラウマがあるという。第一次世界大戦下の1916年、アイルランドの独立を目指した対英武装蜂起は失敗に終わり、ダブリンの町は火の海と化す。そのカタストロフの記憶だ。
 著者は、1916年から第三次世界大戦がついに勃発するかとも思われた1980年代までをカタストロフの淵に人間が追い詰められつづけた時代と把握し、そこに生きて虐げられる弱き人間のギリギリの声なき声、言葉なき言葉の演劇として、ベケットをとらえる。そして、ベケットの危機意識がますます有効な時代として、現在に想像力を巡らせる。学問的考証とアクチュアルな問題意識が交差しスパークする。人類滅亡時代の文学者であり演劇人としてのベケット像が切々と立ち上がってくる。あとがきに1954年の水爆大怪獣映画『ゴジラ』が出てくるのも嬉しい。ゴドーとゴジラは兄弟であったのか。