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  • 美術

2016-05-09 更新

「田中功起展を企画した理由、その意味」 

 

「田中功起 共にいることの可能性、その試み」が、会期残すところあと1週間になりました。本展カタログでは字数の制限もあって書ききれなかったこともあり、ここに展覧会企画者として少し書き残しておきたいと思います。

 

今回、田中功起の2010年以降の活動に焦点をあてた個展を企画したそもそもの理由は、田中の扱うテーマがわたしたちの「生」という根源的なものであるからです。他者と「共にいること」は、ミクロ的にはわたしたちが学校や職場での社会的な生活のなかで日々経験していることであり、マクロ的にいえば文化や宗教の異なる人たちとどのように共存していくかという、国や地域の違い、ないしは時代を超えて問われ続けている、政治的にもきわめて重要な普遍的なテーマです。自身のアイデンティティを失わずに相異なる価値観をもつ他者とどのように共にいるかは、つまり、誰しもが直面し、さまざまなレベルで考察されている、アクチュアリティの高い問いであり、かつ容易に答えられないものといえます。

 

上記のような問題意識から本展をそもそも企画し、田中との対話を通してじっさいの形へと組み立てていくわけですが、ひとつ特記したいのは、初っ端の田中との対話で、「展覧会を含めた既存の美術制度を批評的に検証する」という動機を共有したことです。

 

結果的に、今回の展覧会「田中功起 共にいることの可能性、その試み」は、水戸芸術館現代美術センターのクンストハーレとしての特質が強調されるものになりました。

まず、本展のために新作が制作されたこと。単に新作が制作されること自体は個展において珍しくないですが、その制作の実務面および多少なりとも内容面においても、キュレーターが密にかかわることは、クンストハーレ的な性格ゆえにおのずと成されたことといえると思います。

そして、展覧会の実験的な側面。新作自体が社会実験ともいえるような内容であることもさることながら、展覧会というメディアを批評的に脱構築した展示手法も、実験的なものといえます。入口がふたつあることに象徴されるように、本展には決められた動線がありません。通常、ギャラリーは展覧会ごとに作家やキュレーターが設計した展示プランに基づいて仮設壁が設けられ仕切りがつくられ、来場者の動線をコントロールすることで、ギャラリーという空間にストーリーラインを敷くのが一般的ですが、今展では行き来をさえぎるような仮設壁は一切設置されていません。そのかわりに、田中は10枚の260×400cmの衝立をギャラリー各所に設置して、当ギャラリーのふだんの動線を乱し、複数の回遊のありかたが身体的に(半ば無意識のうちに)認識されるような空間を構成しました。さらに、本展のひとつ前に行われた展覧会の残材をインスタレーションの素材として再利用し、また通常は展覧会ごとに行なう壁面等のタッチアップをわざと行なわせず、前の展覧会の痕跡を自身のインスタレーションのなかに取り込みました。こうした脱構築的な作法によって、アーティストと美術館のあいだで、あるいは、鑑賞者にとっても暗黙の了解となっている展覧会の構造を、批評的に見る視点が投げかけられます。

こうした試みは、田中とのあいだでその都度言語化して確認しあうわけでなく、個展の企画について話しあった初っ端の「展覧会を含めた既存の美術制度を批評」するという相互合意のもと、実装されていったものでした。

 

そもそもクンストハーレ的な公立の芸術文化施設は、日本においてはそれほど多く例がなく、現代美術を扱う美術館が1990年代後半から増えていった事実と比較すると、その独自性が際立ちます。そのため、当センターで学芸員を務める立場として、クンストハーレとしての場の可能性は常々意識していることです。

ひるがえせば、その意識は、通常の美術館ではなされないことを当センターにおいて積極的に試みる必然性の認識へとつながっていきます。例えば、展示することを前提としてつくられた作品だけでなく、もとは展示というアウトプットを前提としていないソーシャル・プラクティスのような芸術活動であっても、それが同時代芸術のひとつの傾向として認知される限り、それらを扱うことを必然と捉えるわけです。もしその活動が展示には不向きであれば、シンポジウムを企画するかたちで議論の場を開くという方法もあります。つまりは、展示という形態にしばられることなく、柔軟なかたちで同時代の芸術の動向を取り上げ、それらの活動が映し出すところの現在のアクチュアルな問題について考察・対話の場を開くことが、現代美術を扱うインスティテューションに、とりわけクンストハーレに求められることのひとつとして考えられます。言い換えれば、現代美術を扱うインスティテューションの役割は、同時代の芸術を通して多様な考えが交差し、それをきっかけに人びとが主体的に思考し対話する公共圏を設けることであり、展示構成や掲示物・配布資料などの作成といったキュラトリアルな実務は、いわばその「思考」の潤滑油としての工夫といえます。

 

カタログでは、これと似たようなことを、掲載されている対談内容からひっぱるかたちで「美術館」の可能性(と限界)として書きましたが、煮詰めれば、収集や保存にかわって企画制作というソフト面に重点を置く「「クンストハーレ」という同時代の芸術を扱うインスティテューションの可能性として、上記を考える方がより妥当であるように思います。

 

クンストハーレという場の可能性を追求し、同時代の芸術活動を通してそれらが映し出す現在のアクチュアルな問題について「思考と対話の場」を開くこと。

 

田中功起の2010年以降の活動に焦点をあてた個展は、上述した観点から、わたしにとっては唯一無比に類するほどの、必然的な企画でした。

今回のようなかたちで、展覧会というメディア、クンストハーレの存在意義、その公共圏としての可能性を、実践を通して共犯的に検証することのできるアーティストは、数えるほどしかいないと思います。今回のような挑戦がつぎにいつできるかは正直わかりません。そういう意味で、今回の田中功起の個展は、わたし自身のキュラトリアル・プラクティスにおいてきわめて重要なものになったと思っています。

 

以上、走り書きですが、展覧会が終わる前に。

 

 

 

竹久侑 (水戸芸術館現代美術センター 学芸員)