2012-06-01 更新
【訃報】吉田秀和水戸芸術館館長 逝去のお知らせ
音楽評論家で文化勲章受章者の吉田秀和水戸芸術館館長が、5月22日午後9時、急性心不全のため鎌倉市雪の下の自宅で急逝いたしました。享年98歳。
※「お別れ会」は7月5日(会場:水戸芸術館)と7月9日(会場:サントリーホール)に執り行いました。
平成24年5月27日
<略歴>
1913年(大正2年)9月23日、東京都日本橋生まれ。東京帝国大学文学部仏文科卒業。
1946年(昭和21年) 「音楽芸術」連載の「モーツァルト」で評論活動をスタ―ト。
音楽の魅力を的確な言葉で表現し、日本に音楽評論というジャンルを確立。
また、音楽のみならず、芸術全般に関する評論活動を続け、幅広い層の読者を得る。
1948年(昭和23年) 井口基成、斎藤秀雄らと後の桐朋学園大学の母体となる「子供のための音楽教室」を創設。
1953年(昭和28年) 「主題と変奏」で音楽評論における指導的地位を確立
1957年(昭和32年) 柴田南雄らと「二十世紀音楽研究所」を設立。現代音楽の育成、紹介の活動にも貢献する。
1975年(昭和50年) 「吉田秀和全集」(全10巻)で「第2回大佛次郎賞」
1982年(昭和57年) 「紫綬褒章」
1988年(昭和63年) 水戸芸術館館長に就任。「第39回NHK放送文化賞」、「勲三等瑞宝章」
1990年(平成2年) 「わが国における音楽批評の確立」で 「朝日賞」
1991年(平成3年) 芸術評論を対象とした「吉田秀和賞」が創設される。
1992年(平成4年) 「マネの肖像」で「第44回読売文学賞」
1996年(平成8年) 「文化功労者」として顕彰される。
2004年(平成16年) 「吉田秀和全集」(全24巻)が完結。「水戸市文化栄誉賞」
2006年(平成18年) 「文化勲章」
2007年(平成19年) 「水戸市名誉市民」
<水戸芸術館館長として>
音楽・演劇・美術の専用施設をもつ水戸芸術館の館長を当時の水戸市長佐川一信氏らが選ぶに当たって、音楽分野での活躍ばかりでなく芸術全般にわたる評論活動などから、館長には吉田秀和氏が最適任者と考えられた。1988年(昭和63年)12月より水戸芸術館館長に就任。このことにより、水戸室内管弦楽団音楽顧問の小澤征爾氏を始め、音楽・演劇・美術それぞれの分野での優れた人材が水戸芸術館に集結することとなった。 水戸芸術館の運営の大きな特色となっている、専属楽団・劇団の設置、自主企画を中心とする事業展開など、さまざまな構想を提案し、日本の文化施設の役割とその発展に大きな可能性を示してきた。
1990年(平成2年)3月の開館以来、吉田館長は、芸術館の活動を常に国際的視野に立って運営の充実を図るとともに、市民に親しまれ喜ばれるように実践してきた。その結果、水戸芸術館は今や我が国の文化施設を代表する1つとなるとともに、水戸のまちの魅力を高める大きな存在となっている。
水戸市名誉市民吉田秀和水戸芸術館長の突然のご逝去の報に接し,驚きとともに痛惜の念でいっぱいです。
吉田様は,音楽評論界の最高峰におられる方で,美術論・演劇評など芸術全般に関する評論活動を続ける中,水戸芸術館の館長として, 開館以来先頭に立ってその運営や芸術・文化の創造と発信にご尽力いただきました。
その功績は,本市の芸術・文化の振興に大きく寄与されるばかりでなく,吉田様の卓越した才能や人的ネットワークにより,水戸芸術館を日本はもとより世界レベルの芸術・文化の発信拠点となるまでにお育ていただきました。
偉大なる指導者を失った今,私どもとしては,吉田様のご遺志を受け継ぎ,水戸芸術館のさらなる発展に努めてまいります。
心からご冥福をお祈り申し上げます。
水戸市長 高橋 靖
吉田秀和先生は、アーティストにとって宝石のような存在でした。
音楽はもちろん、その他の文化、たとえばファッションもよく理解して下さった、ハンサムな国際人でした。
大きな存在で、日本の宝物を失ったような感じです。ゆっくりお休み下さい。
公益財団法人 水戸市芸術振興財団
理事長 森 英恵
お問合せ先:
水戸芸術館事務局
TEL 029(227)8111
FAX 029(227)8110
◆吉田秀和館長の訃報を受け、小澤征爾さんからのメッセージを掲載いたします。
吉田秀和先生の訃報を受け、大変なショックを受けております。知らせを受けてからこの数日間、私の頭の中では吉田先生のことがぐるぐると回っています。
月刊誌「すばる」の4月号に先生が私のことを書いてくれたのですが、あまりにも良いことばかり書いて下さったので、何だか照れ臭くて、御礼の電話をできずにいました。吉田先生には、用の有無に関係なく、割と気軽に電話をさせて頂いていたのですが、なぜ今回は電話をしなかったのだろうと、悔やまれてなりません。
吉田先生は何もなかった戦後の日本に、齋藤秀雄先生、井口基成先生、伊藤武雄先生、入野義郎先生、柴田南雄先生と共に、後の桐朋学園音楽科の母体となる「子どものための音楽教室」を開設されました。私は「子どものための音楽教室」に途中から参加し、桐朋学園音楽科の一期生として齋藤秀雄先生のもとで指揮の勉強をしました。近年、ヴェネズエラの「エルシステマ」から優秀な音楽家が多く生まれていますが、その創設者であるホセ・アントニオ・アブレウ博士に言われたことがあります。「私がなぜエルシステマを作ったか、身を持って体験した君ならよくわかるはずだ」と。貧しく何もなかったあの時代の日本で、子供にクラシック音楽を教えよう、というのは今考えてもすごい発想だと思います。そしてもしあのとき「子どものための音楽教室」ができていなかったら、今の私はありえませんでした。ですから吉田先生は齋藤先生と共に、私の恩人の中の恩人、大恩人です。
吉田先生は音楽教育を受けた方ではありませんでした。しかし先生の音楽に対する直感・感性はすごいものがありました。そして言葉のセンスがずば抜けていたことは言うまでもありません。先生の文章を読むと、その音楽が、あるいはその演奏家の演奏が聴きたくなります。そして何より私が羨ましかったのは、先生の卓越した語学力です。お陰で早い時期から、吉田先生は日本のクラシック音楽界の窓を世界に向けて開けて下さり、世界の著名な音楽評論家たちと交流し、私にも折に触れ、海外の音楽界の色々な情報を下さいました。
水戸芸術館の館長になられた時、是非室内管弦楽団を結成して欲しい、と言われ、私は桐朋学園時代からの仲間たち、潮田益子、渡辺實和子、安芸晶子らに声をかけ、水戸室内管弦楽団を結成しました。皆、世界で活躍するベテラン中のベテランではありますが、それでも私たちにとって、吉田先生はいつでも怖い先生でした。リハーサルの後に楽屋にいらして下さり一言二言感想を言って下さるのですが、それを聞く時はいつも緊張しました。ですから吉田先生が聴いていらっしゃる水戸室内管弦楽団で演奏する時は、まるで学校で試験を受けているような気分でした。この数年は、私の健康の問題で、コンサートをキャンセルすることも多く、先生には大変なご迷惑とご心配をかけてしまい、本当に申し訳なく思っています。ですが、必ず元気になり、これからも指揮者として、頑張って行きたいと思います。これからも吉田先生が見守っていて下さると信じて・・・。
2012年6月1日
小澤征爾