チケット

【重要なお知らせ】

  • 音楽

2020-06-20 更新

【学芸員コラム】田園の癒し

コロナ禍で、今年の4月、5月は、うららかな陽気になっても外に出かけるのがはばかられる、何だか不思議な春でしたね。
それでも休日に家にこもってばかりでは鬱屈してしまうので、広い公園で「密」に注意しながら、家族でピクニックを楽しんだりもしました。人間社会が感染症で大混乱のさなかでも、自然のなかには別の時間の流れがあるようで、新緑が芽生え、花が咲き、鳥がさえずる風景は、とても悠々としています。ウグイスが鳴くのを、よく聞きました。

先日、〈田園〉交響曲の録音を聴きました。オイゲン・ヨッフム指揮、ロンドン交響楽団。
悠然とした音楽の運びに、ピクニックで見た景色を思い出しました。
第2楽章の終わりには、ナイチンゲールやウズラやカッコウの鳴き声も聞こえ、楽譜には鳥の名前も書かれています。

ベートーヴェンが〈田園〉を書き上げたのは1808年、保養地のハイリゲンシュタットに滞在していたときでした。音楽に描かれた自然は、かの地の風景と言われています。

ところで、難聴だったベートーヴェンの耳に、鳥のさえずりは聞こえていたのでしょうか?

ベートーヴェンの耳の病気は、この時期、相当悪化していたはずです。
〈田園〉の終楽章で奏でられる「羊飼いの歌」は、すでに彼には聞こえない音楽でした。作曲に先立つ6年前、同じハイリゲンシュタットで、治らない難聴に絶望したベートーヴェンが弟たちに宛てて書いた手紙(いわゆるハイリゲンシュタットの遺書)には、羊飼いの歌う歌が他の人には聞こえているのに、自分だけ聞こえなかったこと、その出来事が音楽家である彼にとって、自殺を考えるほどのショックであったことが、告白されています。

ベートーヴェンは〈田園〉交響曲を通じて、彼にとって消滅してしまった聴覚世界を、自分のなかに再創造しようとした――ロマン・ロランはそう書いています。
〈田園〉の終楽章の副題は、「羊飼いの歌。嵐の後の神への感謝に結びついた慈しみの気持ち」(初演時のもの)。
ベートーヴェンの自然賛歌が、彼が失った音のある世界への愛惜と祈りの音楽に、私には聴こえてきました。

ベートーヴェンは作曲することを通じて、難聴を受け入れ、自殺を思いとどまり、生きてゆく道を選びます。ハイリゲンシュタットの自然が、彼の心を癒したのでしょう。
コロナ禍の今も、自然が、そして音楽が、苦難を乗り切る活力を、私たちに与えてくれているように思われます。


篠田大基(水戸芸術館音楽部門学芸員)


「生誕250年!今年はベートーヴェンが熱い!」特集ページ