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2020-07-12 更新

【学芸員コラム】フルトヴェングラーのベートーヴェン

前回のエッセイを読み返し、最後の一文に「ベートーヴェンがずしりと鳴り響く」と書いていて、思わずハッとしました。ベートーヴェンは“ずしり”と鳴り響いてほしいという内なる願望が、はからずも露になっていたからです。

“ずしり”と鳴り響くベートーヴェンと言えば、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886~1954)が指揮した演奏が真っ先に思い浮かぶでしょう。暗めの音色と重厚なハーモニーを基に、俗物性や綺麗事にはきっぱりと背を向け、深刻な表情で人生の意味を問いかけてくるような悲劇性の音楽。“ずしり”とした低音にリビングの床が抜けそうになるだけでなく、聴く者の心になにか特別重たいものが投げかけられるのが、フルトヴェングラーの演奏なのではないかと私は受け取っています。それは「宿命の悲しみ」とでも言えましょうか。

1922年、36歳の若さでベルリン・フィルの首席指揮者となるフルトヴェングラーですが、10年ほどすると、急速に勢力を拡大したナチスとの関係に神経をすり減らすようになります。フルトヴェングラーは基本姿勢としてナチスには非協力的であったと伝えられ、1934年のいわゆる「ヒンデミット事件」では、当時ドイツを代表する作曲家として認められていたパウル・ヒンデミットを当局の攻撃から擁護すべく、新聞に論評を寄稿するなどして公然と反抗の意思を示しています。

一方で、フルトヴェングラーは、例えば同業のトスカニーニやエーリヒ・クライバーのように亡命の道は選びませんでした。終戦する1945年にウィーンからスイスに逃れていますが、基本的には戦時中もドイツに留まって演奏活動を続けていたと言ってもいいでしょう。ベルリン・フィル団員の徴兵免除やウィーン・フィルの解散阻止、ユダヤ人音楽家の亡命の手助けなどにも尽力したフルトヴェングラーは、むごたらしい政権下であっても、そこで生活せざるを得ないドイツの民を見捨てるわけにはいかなかったのです。

例えば、終戦前年の1944年には、ベルリン、ウィーンを中心に実に60回もの本番をこなしています。その頃の録音も相当数残されていますが、12月のベートーヴェン3番(いわゆる“ウラニアのエロイカ”と呼ばれる音源)などを聴くと、戦時下独特の緊張感とともに、音楽をすることのたましいを揺さぶる何かが、激しく燃え滾っているのが分かります。

名ばかりではあっても「プロイセン枢密顧問官」という職に就き、体制の内側で演奏活動を続けていたフルトヴェングラーは、戦後、ナチスへの協力者と見なされます。連合国側による「非ナチ化裁判」を経て、ドイツでの活動が認められるようになるまで、約2年を要しました。

フルトヴェングラーの待ちに待ったベルリン復帰公演(1947年5月)も、ライブ音源が一部残されています。オール・ベートーヴェンのプログラム。その《運命》交響曲の何とも言えない“ずしり”とした重さ。ひさびさに故郷で音楽ができる喜びだけで、この重さは有り得ません。戦時中ドイツに残るという難しい決断をしたフルトヴェングラーの「宿命の悲しみ」故の重さであろう、と私は感じています。

(続く)

関根哲也(水戸芸術館音楽部門 主任学芸員)

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