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2020-10-13 更新

MCOの“弦”点回帰マーラーとストラヴィンスキーにみる弦楽の美

 コロナ禍でコンサートが次々と消えていった今年の春。5月に予定していたマルタ・アルゲリッチ氏を迎えての水戸室内管弦楽団(MCO)の定期演奏会も、残念ながら中止となってしまいました。今、各地でコンサートが再開されるようになり、まだコロナ以前と同じとはいきませんが、それでも嵐の後に雲間から差し込む光のような、明るく喜ばしいものを感じます。そしてMCOもついに、10月31日(土)と11月1日(日)、再び定期演奏会を開催できることになりました。

 とはいえ、MCOの管楽器奏者を中心に、海外在住演奏家の渡航困難な状況は今も続いており、感染症終息の兆しも見えません。そこで今回は国内在住の演奏家を中心に、管楽器なし、指揮者なしで演奏を行います。ブルッフの〈コル・ニドライ〉(弦楽合奏版)の静かな祈りに始まり、ベートーヴェン作曲、マーラー編曲の弦楽四重奏曲第11番〈セリオーソ〉、ストラヴィンスキーの〈ミューズを率いるアポロ〉という、聴き応えのある弦楽合奏曲が並びます。室内楽的な綿密なアンサンブルと多人数での演奏ゆえの表現の幅の広さ、その両方を同時に味わっていただければ幸いです。

 前回2月の第105回定期演奏会では、今年30周年を迎えたMCOのこれまでの演奏曲から思い出に残る作品を集めてお贈りしました。そのなかには、初めての演奏会で奏でられたチャイコフスキーの〈弦楽セレナード〉、吉田秀和前館長とMCOに捧げられたバルシャイ編曲のショスタコーヴィチ〈アイネ・クライネ・シンフォニー〉という、2曲の弦楽合奏曲がプログラムに組み込まれていました。MCOは特に草創期に、弦楽合奏曲をさかんに取り上げてきました。MCOが初めてリリースしたCDも、指揮者なしの弦楽合奏でした。今回演奏される〈セリオーソ〉と同じようにマーラーが編曲した、シューベルトの弦楽四重奏曲第14番〈死と乙女〉の弦楽合奏版。第1993年の第16回定期演奏会に合わせて行われたセッション録音です(ソニー・クラシカル SRCR-9502)。

 この弦楽合奏版〈死と乙女〉は、MCOの演奏史を語る上で、欠くことのできない楽曲と言えるでしょう。第9回と第16回の2回の定期演奏会で取り上げられ、メンバーの室内楽の経験を生かして練り上げられた音楽に、さらに1997年の第29回定期演奏会とその翌年の第1回ヨーロッパ公演では、小澤征爾総監督の指揮が加わって、大きな反響を得ています。そして〈セリオーソ〉も、ちょうどこれと同じ時期にあたる、第31回定期演奏会で初めて取り上げられています。

 小澤征爾総監督は、「弦楽四重奏(カルテット)がクラシック音楽の基本であり、カルテットを拡大したものがオーケストラ」という持論をたびたび語っています。今回、1997年以来23年ぶりに取り上げることになるマーラー版〈セリオーソ〉は、まさに小澤総監督の持論を具現化した音楽と言えるでしょう。コロナ禍に期せずして生まれた全編弦楽合奏プログラムの今回は、結成から30年を経たMCOの“弦”点回帰の音楽会なのです。

水戸室内管弦楽団第104回定期演奏会より。撮影:大窪道治

 弦楽合奏の魅力、醍醐味はどんなところにあるのでしょうか。ここでは、今回演奏される〈セリオーソ〉と〈ミューズを率いるアポロ〉を軸に考えてみたいと思います。

 第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスという弦楽器によるアンサンブルは、オーケストラの、いわば核です。歴史的に見ても、オーケストラは、弦楽合奏に管楽器を少しずつ加えていくようにして発展してきました。その弦楽合奏の精髄を抜き出した音楽が、弦楽四重奏と言えるでしょう。弦楽四重奏曲が誕生した古典派の時代には、弦楽合奏の音楽もさかんに作られました。MCOの十八番とも言えるモーツァルトの〈ディヴェルティメント〉K. 136のように、弦楽合奏でも弦楽四重奏でも演奏される曲もあります。
 ところが19世紀になると弦楽合奏の音楽は、たとえばメンデルスゾーンやロッシーニの初期作品、チャイコフスキーやドヴォルザークの〈セレナード〉など、魅力的な作品はもちろん見られるものの、全体としては作品数が減ってゆきます。それは、オーケストラの大規模化と不可分の関係にあったはずです。様々な楽器、様々な音色に彩られた音楽に人々は魅了されたでしょうし、作曲家にとっても沢山の楽器をどう使いこなすかは、作曲の腕の見せ所だったはずです。今回の演奏会で最初に演奏されるブルッフの〈コル・ニドライ〉(1880年)も、原曲は二管編成(各管楽器2人ずつ)に、ホルンは4人、トロンボーンは3人、さらにティンパニとハープが加わる大編成で書かれていました。

 楽器編成の巨大化の極北に立つのがマーラー(1860~1911)でしょう。〈千人の交響曲〉(交響曲第8番)に代表される超弩級交響曲を作り上げ、ベートーヴェンの〈第九〉に対しては管楽器と打楽器を大幅に増強させる改訂を施して上演したマーラーが、〈セリオーソ〉のような弦楽四重奏にも目を向けたのは、一見、意外に思えるかもしれません。しかしこれも、言うなれば「弦楽四重奏の巨大化」。マーラーは、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の真価が理解されるには、「四人の奏者だけでは絶対的に不足」だと信じていたのです(マーラーの友人ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想『グスタフ・マーラーの思い出』より。高野茂訳(音楽之友社、1988年)p. 271)。
 〈セリオーソ〉は、ベートーヴェンの16曲ある弦楽四重奏曲のなかで最も演奏時間が短く、その切り詰められた構成と急速な展開が、作品の愛称(セリオーソ=真剣、厳粛の意)のとおりの緊迫感を生み出しています。マーラーは、ベートーヴェンによって四重奏のなかに凝縮された音楽の世界を、逆に多人数の弦楽合奏に解き放つことで、ベートーヴェンが作品に込めた構想の大きさを提示しようとしたのではないでしょうか。
 マーラーは、〈セリオーソ〉の編曲(1899年)にあたり、原曲をほとんど変えていません。それでも第1楽章や第3楽章では、多人数ならではのエネルギーが炸裂し、第4楽章の最後ではクレッシェンドをともなって駆け上がるような爽快なクライマックスが築かれます。その一方で静かな第2楽章では、マーラーは、チェロの動きにコントラバスのピツィカートを重ねたり、楽章の終わりではベートーヴェンの時代には使われない「pppp」の指示を加えたりして、弦の音色の繊細さが現れるように心を砕いています。このような強弱のダイナミズムこそ、多人数の弦楽合奏によって開示される〈セリオーソ〉の魅力と言えるでしょう。マーラーのこの経験は、後の〈交響曲第5番〉(1902年)において、大オーケストラが静まりかえるなか、弦楽器とハープだけで静かに演奏される第4楽章のアダージェット(映画『べニスに死す』で使われたことで有名)に結実することになります。

 さて、マーラーの時代を経て、オーケストラの巨大化に対する反動が起こったのが、20世紀の両大戦間の時代でした。新しい響きを探究する作曲家たちの様々な試み、そこに戦争や経済的な問題で沢山の音楽家や楽器を集めることが難しくなったという事情が関係し、それまでにないユニークな楽器編成の音楽が生まれてきます。
 五管編成(各管楽器5人ずつ)の大オーケストラで演奏される〈春の祭典〉(1913年)を書いたストラヴィンスキー(1882~1971)が、戦争を題材にした〈兵士の物語〉の音楽(1918年)に小さな楽器編成を選んだ背景にも、戦争の影響があったとされます。その後もストラヴィンスキーは管楽器を中心に、オーケストラよりも小編成のアンサンブル作品に力を注ぐようになりました。
 1927年、ストラヴィンスキーは、ギリシャ神話にもとづくバレエ〈ミューズを率いるアポロ〉の作曲を依頼されます。動きの無駄を取り去った「古典舞踊の線的な美しさ」に相応しい音楽を書こうとしたストラヴィンスキーが、ここで注目したのは、それまでどちらかと言えば避けていた、弦楽器でした。彼はこう述べています。 
 

「弦楽器の多様な響きの好音調に浸り、それをポリフォニックな組立てのごく些細な片隅まで浸透させるというのはなんという喜びだろう! そして弦楽器を支える歌に流れ込む旋律の波以上に古典バレエの簡素な構図をどうやってうまく表現できるだろう!」
(『私の人生の年代記――ストラヴィンスキー自伝』笠羽映子訳(未来社、2013年)p. 158)

  ストラヴィンスキーが弦楽器に求めたもの、それは流麗な旋律線でした。〈ミューズを率いるアポロ〉は弦6部(ヴァイオリンとチェロが2パートずつ)を基本に、部分的にはコントラバス以外がさらにソロ(独奏)とトゥッティ(総奏)に分かれて、最大11パートのアンサンブルになります。何本もの線が折り重なり、絡み合う音楽。しかしあくまで透明な響きをたたえています。その音の綾につつまれる快感は、なるほど弦楽のアンサンブルだからこそもたらされるのかもしれません。
 
 マーラーとストラヴィンスキー。異なる時代を背景に、それぞれが見出した弦楽の美
――強弱のダイナミズムを、流麗な旋律線の織りなす綾を、室内楽の名手が揃うMCOの精妙なアンサンブルで、どうぞご堪能ください。

篠田大基(水戸芸術館音楽紙『vivo』2020年10-11月号より。一部加筆)