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【重要なお知らせ】

2022-10-21 更新

「第32回吉田秀和賞」受賞者決定のおしらせ

 さて、平成2年に創設いたしました吉田秀和賞は、優れた芸術評論を発表した人に対して賞を贈呈し、芸術文化を振興することを目的として当財団が運営しております。
第32回目となりました今回は、昨年に引き続き審査委員に磯崎新氏と片山杜秀氏を迎え、厳正に審査を行ないました結果、候補書籍の総数98点(音楽25点/演劇11点/美術35点/ /映像18点/建築7点/その他2点)の中から、新井高子氏の『唐十郎のせりふ―二〇〇〇年代戯曲をひらく』(幻戯書房 令和312月刊)に決定いたしました。
賞の贈呈式は、本年1112日(土)14時から水戸芸術館会議場にて開催する予定です。

   

[著者略歴]
新井高子(あらい・たかこ)
1966年、群馬県桐生市生まれ。慶應義塾大学大学院修士課程修了。詩人。埼玉大学准教授。詩誌『ミて』編集人。詩集に『タマシィ・ダンス』(未知谷、第41回小熊秀雄賞受賞)、『ベットと織機』(未知谷)等。英訳詩集に『Factory Girls』(Action Books、Jeffrey Angles編、第1回Sarah Maguire Prize最終候補)等。編著に『東北おんば訳 石川啄木のうた』(未來社)。共著に『世界文学としての〈震災後文学〉』(明石書店)等。企画制作した映画に『東北おんばのうた ―― つなみの浜辺で』(監督・鈴木余位、山形国際ドキュメンタリー映画祭2021アジア千波万波部門入選)。アイオワ大学国際創作プログラム2019招待参加。
 

第32回吉田秀和賞 受賞作品

 

新井 高子 『唐十郎のせりふ―二〇〇〇年代戯曲をひらく』
(幻戯書房 令和3年12月刊
 

【審査委員選評】 
 
片山杜秀
 
これぞ批評です。猛烈な力があります。呪力と申しても良いでしょう。本書全体が呪言なのかもしれません。とても怖い批評なのです。どう怖いかと言うと、不断の往還運動があって、その勢いに圧倒されてしまうのです。寄せ来る津波のように読者が呑まれる。なんなんだ、この体験は!
往還運動と言いました。どこに往ってどこに還るのでしょう? 批評ですから往くのは批評対象です。本書は表題や副題にあるように、唐十郎でも劇団「唐組」以降の、しかも特に21世紀に入ってからの芝居を論じています。著者は「私」を消し、純粋な目と耳だけになって、唐十郎の演劇世界に没入しようとする。見通そうとする。聴き通そうとする。確かにそうしているのです。ところが、そのようにして往って、往きっぱなしになって、「私」がつとめて消えて、客観的になって、唐の世界がついに見切られ、聴き切られたかと思うと、その刹那、彼方から必ず反転する。どこに反転するのか。還ってくるのか。「私」に決まっている。対象を批評した果てに、ついに浮かび上がるのは著者という「私」なのです。
優れた批評とは、必ずとても私的なもの。最後に「私」に還ってくる構造になっているのが本物の批評。本書は全体構造として見事にそうなっております。四畳半くらいの私的な世界から、おのれを無にして大宇宙にどんどん漂っていったつもりが、いつの間にか四畳半に戻っている。そういう無限の行き来の構造と言えばよいでしょうか。本書は大きな旅を繰り返しては、終わりの方の312頁に辿りつくと、著者、新井高子という「私」がはっきりと露出して終わる。壮絶な落ちがあるのです。まるで屋台崩しのような。そこがまた唐的ともいえるし、もしかして寺山修司的かもしれません。壮大なドラマの果てに、いつも荒野としての故郷があるというふうな。
ちょっと具体的にしましょう。著者が批評家としておのれをいったん透明にして唐の方に往く。ところがそこで待っている唐は、たとえば三島由紀夫のような、近代人的な自律した主意で戯曲を徹底的に造型する作家ではない。とりわけ2000年代以降の唐は、フランスの超現実主義文学者たちのように、おのれの意識を努めて消して、神の言葉を憑依させるシャーマンのように、物の声を聴き取ろうとする。著者がおのれを消すと、唐もおのれを消す。二重反復です。そうして唐は、物からのイマジネーションに身を浸し、そこから無意識にオートマティックに演劇を紡ごうとする。戯曲『風のほこり』なら義眼でしょうし、『夜壺』ならマネキンや溲瓶でしょうし、『夕坂童子』なら手袋でしょうし、『糸女郎』なら糸でしょう。町工場で作られるような品物であることが多いようです。とにかくそうして聴き取られた声が、一座の役者たちの顔と身体と声のイメージに従って自動書記的に割り振られて唐の戯曲が生まれるというのが、本書の指し示す基本的理解でしょう。本書のタイトルには「せりふ」と入っていますが、著者はせりふの原義を語り物研究者の山本吉左右の定義にならって「競り言う」と解する。競争して即興的にみんなが思い思いに言うのが日本語としての本来の芝居の台詞というものだ。唐はシャーマンとしてそういう多声的な台詞を自動書記的につむいでいるのだ。
でも、そうだとしても、やっぱり唐の芝居は唐の作品で、唐という「私」からどんなに離れていっても唐に還ってくる。それを示唆するのは戯曲『鉛の兵隊』を読み解くキイワードとして著者の取り上げる指紋ではないでしょうか。この世界のどんな物も、「唐組」の役者たちも、唐の指紋が付いていれば(もしかして声紋も?)、結局、唐という「私」に回収され、戻って来る。とすると、唐の世界は、シャーマンである唐の巨大な耳の「聴く力」によって、際限なく彼方へと広がるようだけれど、実は唐の指紋の付いていたところに自ずと磁場ができている。それはやはり唐に近しい東京の下町だ。町工場街だ。そして芸人の町、浅草だ。どんなに広がってもそのあたりに還ってくる。「私」を消したら「私」が出てくる。無限の往還運動です。一種の堂々巡りです。
本書はそのように唐の「私」を解き明かしていると思うのですが、そう唐が見えてくるのは、やはり著者という「私」の呪力、もっと普通に言えば思い入れが、全編に働いているからです。唐の磁場と著者の磁場が連動しているからそうなる。著者には、著者にとって荒野と化した故郷というイメージでしか語れなくなっているだろう、群馬県の桐生がある。詳しくは312頁を読んでいただきたいのです。そして私の勝手な想像では、桐生は東武線で浅草と結ばれている。ここに著者と唐十郎のあいだに強い磁場が生まれ、唐の呪言を受ける著者の呪言が紡がれだす。著者が詩人であることがまたとても重大。真の批評は呪言である。そう思い知らされる傑作です。
 

 
【受賞者からのコメント】
 
新井高子
 
「迷宮」とも評される唐十郎の劇世界。まるで探偵遊びに夢中になる子のように、わたしはめくるめく語りにときめき、絶妙なかけ合いに吹き出し、複雑なしくみに転び、そうして擦り傷をつくろうとも、口笛のような劇中歌をくちずさむことはやめず、戯曲の謎解きを重ねた本書。このたびの受賞は、そんな原っぱに突然はじけた、まるで薬玉で、やはり幼な子のように目を丸くし、色とりどりの紙ふぶきの舞いに見入っております。
 いえ、唐十郎という鬼才のそれこそは、近代的な童心などという枠に到底おさまらず、古代からめんめんとつづく芸能の声と旅の本質を掴んだ、原初の力としての「こども」です。そこにいのちの輝きを感じ、そのテント劇に足を運ぶ人はもちろん数多ありますが、思いがけず拙著が授かったこの光栄は、自閉的な昨今に、もっとも過激で繊細な突破口のヒントをくれるのが、唐劇のせりふ、唐文学のことばだからなのでしょう。
唐組公演を観るために通った水戸の地に、このようなかたちで再訪できますことも、この上ない幸運です。

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