【重要なお知らせ】

    2026-09-25 更新

    「第36回吉田秀和賞」受賞者決定のおしらせ

     平成2(1990)年に創設いたしました吉田秀和賞は、優れた芸術評論を発表した人に対して賞を贈呈し、芸術文化を振興することを目的として当財団が運営しております。
    今回は、第36回目となりました。審査委員に片山杜秀氏と堀江敏幸氏を迎え、厳正に審査を行いました結果、候補書籍の総数103点(音楽18点/演劇28点/美術35点/映像7点/建築7点/その他8)の中から、今村信隆氏の『「お静かに!」の文化史 ミュージアムの声と沈黙をめぐって』(文学通信2024年11月刊)と『「お静かに!」の誕生 近代日本美術の鑑賞と批評』(文学通信2025年7月刊)の2作品に決定いたしました。
    賞の贈呈式は、本年10月24日(土)13時から水戸芸術館会議場にて開催する予定です。



       

    [著者略歴]
    今村 信隆(いまむら・のぶたか)
    北海道大学大学院文学研究院教授。放送大学客員教授。
    1977年、北海道生まれ。北海道大学文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。
    民間のバス会社で働いた後、札幌芸術の森美術館に勤務。その後、京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)准教授、甲南女子大学准教授等を経て、現職。
    単著に、『一七世紀フランスの絵画理論と絵画談義』(北海道大学出版会、2021)、『「お静かに!」の文化史―ミュージアムの声と沈黙をめぐって』(文学通信、2024)、『「お静かに!」の誕生―近代日本美術の鑑賞と批評』(文学通信、2025)、編著に、今村信隆編『博物館の歴史・理論・実践1~3』(藝術学舎、2017-2018)、今村信隆監修『文学館を旅する』(イカロス出版、2025年)、共編箸に『学芸員がミュージアムを変える!‐公共文化施設の地域力』(水曜社、2021)、『プラス・ミュージアムー地域文化資源としての博物館論』(水曜社、2026)などがある。
     
     

    第36回吉田秀和賞 受賞作品

      

    『「お静かに!」の文化史 ミュージアムの声と沈黙をめぐって』(文学通信2024年11月刊)(左)
    『「お静かに!」の誕生 近代日本美術の鑑賞と批評』(文学通信2025年7月刊)(右)
     
     


    【審査委員選評】 
     
    片山杜秀

    『「お静かに!」の文化史』と『「お静かに!」の誕生』。もともと1冊になるように書き進められていたものが2冊に分かれたと言います。別々に読めますし、片方ずつでも読書の愉悦、知の発見をたっぷり味わわせてくれます。が、2冊合わせてこそ真価に思い至れる書物たちに違いありません。兄弟というか姉妹というか双生児というか。とにかく相補的である。共通する勘所は重複を恐れず2冊両方で念を押してあるから片方だけでも何か読み誤ったりよく分からなかったりということはない。でも一緒にして重ね合わせると面白さは倍増です。とにかく「お静かに!」についてここまで書き尽くしてくれた本はないでしょう。
    はて、そもそも「お静かに!」とは? 人間世界の常套句に他なりませんが、この2冊で特に扱われるのは、美術鑑賞の際、美術館などで、なぜ「お静かに!」が強調され、近代人の習慣となり規律となりたしなみとなりしきたりになって今に至るのかということです。もちろん「お静かに!」は劇場でもコンサート・ホールでも重んじられて、もしも「お静かに!」と言われて従わなければ、大騒動が巻き起こり、どうしてもうるさいと認定されたお客さんは外につまみ出されかねなくなるものでしょう。演劇と音楽と美術。近代芸術の三本柱と言いますか。本賞の勧進元と言える水戸芸術館も劇場とコンサート・ホールと美術ギャラリーを同じ建物に収めております。どれも「お静かに!」と縁がある。「お静かに!」は近代芸術と不可分である! そう、やはり近代芸術なのです。芸能とか見世物とかなら「お静かに!」とは言われなかったろうし、今でもそうかもしれません。「近代」になって、「近代人」が現れて、「芸術」に高尚なる感動を求めるようになって、その「近代人の感動」とは集団的熱狂や群集心理的な付和雷同するものではなく、個人の内面の深い精神的体験と相場は決まっているから、外部の騒音はシャットアウトされなければ宜しくない。作品に「深入り」していくためには集中が必要。音楽は聴覚がものを言うし、演劇も台詞を聞きのがしてはならないから、作品・演目の発する音や声以外の余計な音は徹底して排除したい。そうでなければ鑑賞に集中できない。よって「おしゃべり厳禁!」どころか、「咳をするな」「鼻息がうるさい」にまで行く。さらに視覚等にまで絡んで「微動だにするな!」「変に動くと目障りだ」といったところに発展してゆく。
    一方、美術となると古典的には視覚一辺倒です。それだったら、誰かの視界の邪魔にならなければ「絵や彫刻の前で喋っていてもいいじゃないか」となりそうなものですが、そうではない。眼に力を込めて鑑賞するには耳から余計なものが入るととても邪魔になる。気が散る。よってノイズは遮断されねばならない。ここに美術館でも「お静かに!」の原則が生まれるのでしょう。
    しかしそれで正しいのでしょうか。この2冊は「お静かに!」の良し悪しを審判しようとする本ではありません。あくまでも「お静かに!」がいかに「近代の規範」として「誕生」したかを広く「文化史」的に解き明かそうとする本です。その意味でニュートラル。けれど、だからと言って批評的・批判的・問題提起的ではないのかというと全くそうではありません。「お静かに!」という近代のひとつの常識的作法を当たり前でなく何らかのストーリーに乗っかってわざわざ「誕生」したものとして論ずるということからして、既に猛烈に批評的なのです。すると「お静かに!」の「誕生以前」の時代もあったわけでしょう。わざわざ「お静かに!」と言うようになる前。そのときは当然「静か」ではなかったのです。絵の前で絵を派手に声を出して論ずることが、皆の美術への理解力や批評精神を高めてゆく。絵を集めて飾る場所は静粛どころか喧々囂々としている。それが当たり前で自然な時代があった。絵を前にして人々がしゃべり議論し納得し反対意見を述べ争いもする。人々が良識ある評価軸を共有し、「近代社会」を構成するにふさわしい「近代人」としての対話的精神、あるいは民主主義や市民というものは、たとえば絵を前にしてはぐくまれる。そういう筋道もあったし、今もある。要するにこの2冊は「お静かに!」にもうひとつの「近代」を、言わば「お喧しくていけませんか!」を対置し続けるのです。具体的には明治時代のやかましい美術展覧会場の様相などが取り上げられてゆきます。とはいえ「お喧しく!」はやはりどうしても主役にはなれないで長いこと来ている。うるささを制御したい意識が近代の美術館のありようの本流をなしてゆく。「お静かに!」が優位する。その根源には「静謐を重んじる個人の深遠なる内面」と「秩序を侵犯する可能性のある群衆のノイズを抑圧したい権力」という、いかにも両極端に見えるが実は親和性の高い2つの力の野合がある。2冊の勘所ではないでしょうか
    結局、この2冊が示唆するのは、美術館でもっとおしゃべりしてもいいではないか、ということに尽きて来るかと思うのです。著者はそこまでハッキリ言う気はないと仰るかもしれないけれど、勝手な読者としてはどうしてもそこに行きます。そういえば、この2冊の書き方・綴り方は、ほとんど気ままなおしゃべりを字にしました、という風でしょう。ベンヤミンにハーバーマスにデューイに九鬼隆一に尾崎紅葉に武者小路実篤に……。もしかして論旨を進めるためには必ずしも出てこなくてもよいような人や話題も含めて、ひたすら過剰な書きっぷりです。おしゃべりな本なので2冊に分かれてしまったのでしょう。そんなスタイルに倣ったつもりで私も書き連ねて、すっかり冗長になってしまいました。ごめんなさい。森鴎外に非難された外山正一みたいなものでしょうか。えっ、どういうことかですって? 『「お静かに!」の誕生』の方をお読みいただければ分かります。是非どうぞ。 

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    堀江敏幸
     
     今村信隆さんの『お静かに!の誕生』は、単独の著作としても読み応えのあるものだが、前作『お静かに!の文化史』とあわせ読むことで見通しがさらによくなる連作の一冊として受けとめておきたい。
     見世物、書画会から博覧会、そして美術展へ。かつて作品の前で笑い、語り合っていた人々の声が、近代的な鑑賞と批評の成立に伴ってどのように退けられ、作品について語る言葉が口頭でのやりとりから書かれた批評へどのように重心を移していったのか。天皇皇后から地方の観客、鷗外や白樺派の作家たちに至るまで、幅広い人物が登場する多彩な史料と逸話からたどられていく。
     美術館で求められている静けさは、作品の側からの要求ではなく、じつは歴史のなかで形づくられてきた文化的作法であることがこうして示されるのだが、沈黙は知識や弁舌における文化的な差異をさらさずにすむ避難所でもあったから、語り合う自由を無条件に取り戻そうという単純な話にはならない。
     著者は美術館の現場をよく知る人である。結論や提言を急がず、忘れられた声を次々と「陳列/展示」し、動線を見失わないよう面出しする手つきと二冊で補完し合う構成によって、沈黙と饒舌をともに表現するたくみな仕掛けだと私は読んだ。

     

     【受賞者からのコメント】

     すぐれた著者が、すぐれた文章で綴る「批評」には、ときとして、世界をゆさぶる力が宿るのだと思います。けれども、絵をみるわたしのすぐ隣で、親しい誰かが、聞き慣れた声で発する「おしゃべり」にも、何かしらの力が宿りうるのではないでしょうか。それは、世界をゆさぶることはなくても、少なくともわたしをゆさぶります。専門的な「批評」のことばほどの深みはもたずとも、それとはまた別種の力をもって、絵をみるわたしを励ましたり、温めたり、繋ぎとめたりしてくれます。そうした「おしゃべり」が、古今の鑑賞の場でどのように扱われてきたのか。作品とのあいだに、どのような関係を結んできたのか。そして、いま、どのように受け止められているのか。そのようなことを考えながら、2冊の著作、『「お静かに!」の文化史』と『「お静かに!」の誕生』を書きました。
    なお、2冊は、一応は別の本です。内容も性格も異なります。ただ、筆者としては、双子の「きょうだい」といえるほど、根底の部分で通じ合っていると感じています。そのつながりを認めていただいたこと、しかも、尊敬する諸先生方が受賞されてきた栄えある吉田秀和賞の場でお認めいただいたこと、まことに感謝の念に堪えません。