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2013-09-07 更新

【新楽団員を訪ねて】島田真千子さん(ヴァイオリン)

水戸室内管弦楽団(MCO)に加わった新しい楽団員をご紹介しているインタビューシリーズ「新楽団員を訪ねて」。第5回は、ソロ、室内楽、オーケストラなど国内外で幅広くご活躍され、MCOにも2001年以来数多く参加してくださっているヴァイオリニスト、島田真千子さんです。

子どもの頃に体験したオーケストラの楽しさ、人生で初めて味わった大きな挫折、海外で研鑽を積んだ時期のこと、そしてMCO楽団員としての抱負…など、貴重なお話をたくさん伺いました。

島田さんの音楽への深い情熱が伝わってくるお話です。10/5,6の水戸室内管弦楽団第88回定期演奏会(指揮・ホルン:ラデク・バボラーク)の前に、ぜひお読みください!


―今年の7月からMCOに新楽団員として加わっていただきました。今のお気持ちからお聞かせいただけますか? 

本当にありがたく思っています。そのご連絡をいただいた時は、ソリストとして協奏曲を2つ弾く予定があり、全てを投げ打って家にひとりで引きこもり、練習だけしていた時でした。音楽は大好きなので幸せなことではありますが、「自分はこんなふうに音楽だけの生活をしていて良いのだろうか…」と考えたりして苦しい部分もあり、孤独でもありました。ちょうどそんなタイミングでご連絡をいただき、「こんな自分だけれども、仲間に入れてもらえるんだ!」と、嬉しかったです。

―島田さんは2001年の第47回定期演奏会以来、数多くのMCO公演にご参加いただいています。島田さんにとってのMCOの印象や魅力について、お話しいただけますか?

やはり何といっても「一人一人の強力な個性の大きさ」を思う楽団です。小澤征爾先生を含め、本当に個性が際立っている巨頭たちが集まったオーケストラだと思います。それに音楽が、パートの首席になる人によっても変わり、誰がどこに座るかによって変わる。それがこの楽団の大きな魅力だと思います。異なる個性を持つメンバーそれぞれの間に絆があり、それと同じくらいの絆がスタッフの方にもあり、またお客様ともつながっているということを年々強く感じています。

ちなみに、私が初めて聴衆としてMCOの演奏を聴いたのは、1996年にピアニストのブルーノ=レオナルド・ゲルバーさんがいらした第25回定期演奏会。ちょうど店村眞積先生のレッスンを受けに水戸を訪れた時でした。

―ヴァイオリニストの島田さんが、ヴィオラの店村眞積さんに師事されるようになったきっかけをお聞かせください。

実は東京芸大2年生の時、日本音楽コンクールを受ける前に左手をひどく故障してしまったのです。でもその時は何が原因で痛めたのか本当に分からなくて…。そんな時、弦楽専門誌のインタビュー記事で、店村先生がまさに演奏と身体の関係についてお話されていたのです。もちろん演奏家としても以前から尊敬していたので、先生のヴィオラの生徒に頼んでレッスンについていきました。すると先生が、痛めた原因にあたる部分をすぐ指摘してくださり、それからプライベートで弾き方を教えていただくようになりました。それである時、水戸でレッスンを受け、先生から「せっかくだから演奏会も聴いていけば?」とお誘いいただき、そこで初めてMCOの演奏を聴いたのです。

―最初に聴いた時はどのようなことをお感じになりましたか?

まずステージを見て「日本じゃない!」と思いました。異空間のようでしたし、とても落ち着いた室内楽的な雰囲気。でも各奏者が輝いていて、とても憧れました。ドキドキしながら演奏を聴き、終演後は駅までニコニコ笑いながら歩いて帰ったことをよく覚えています。それからサイトウ・キネン・オーケストラに参加するようになり、その後、MCOにも呼んで頂けることになって、本当にびっくりしました。

―島田さんはこれまでMCO定期演奏会にたびたびご出演くださっていますが、特に印象深かった公演はありますか?

やはり私が最初に小澤先生指揮の公演に参加したときでしょうか。それまで参加していたサイトウ・キネン・オーケストラと比べてMCOは密度が高く、小澤先生との距離もすごく近いですし、一人一人の音もよく聴こえるし、私の音も皆に聴こえる位置で、音楽への集中が凝縮されてすごい充実感。生き生きとしたスピリットは、それまで体験したことのないものでした。

それから2008年のヨーロッパ公演直前に小澤先生の降板が決まり、ヨーロッパに「指揮者なし」で行くと決まった時…。皆さん本当に真剣に考えていらっしゃった。でも、そこでそういう決断をしたことが、水戸室内管弦楽団の強さだと思います。「音楽ができる」という確信をメンバー全員が持っている。それぞれの責任は増えるけど、それを実現して絶対良いものにするという真剣で強い気持ちが音楽からも伝わってきました。それが決まった時は、まさに鳥肌がたつような瞬間でした。

―最近の公演ではいかがですか?

今でも私の心に残っていることが一つあります。2012年1月の第83回定期演奏会で、小澤先生が2日目の公演に出演できなくなった時。会場で、お客様といろいろありましたよね。その時、私はたまたま舞台袖の扉の近くにいたので、ホール内でのお客様とスタッフのやりとりを壁に耳を当てて聞いていました。その時、客席にいらっしゃった吉田秀和先生がぱっと立たれ、マイクを持ってお話しされた。最後に一言、『失った時間はもう戻らないんです』と大きな声で決然とおっしゃった。それは、「その時に起きてしまったことに対してはどうしようもない」という説明だったのですが、私には、刹那主義を説く天の声みたいに力強く聞こえました。音楽にも通じるものがありますよね。私たち音楽家は今ここにある一音一音に命をかけるけれど、それはどんどん過ぎ去って行く、というか…。今でも私の中にその時の吉田先生のお声が、残っています。

その直後、ステージに出てモーツァルトの〈ディヴェルティメント ニ長調 K.136(125a)〉を指揮者なしで弾いた時、なぜだか涙が止まりませんでした。MCOの演奏を聴こうと残ってくださったお客様がいらっしゃる一方、そうでない方がいた事が明らかになった中で弾く、その何とも言えない気持ち…。でもメンバーの皆さんから「舞台には笑って出て行こう!」という言葉があり、いつもよりも更に心を込めて演奏しました。その全てのことやモーツァルトの美しさが何とも切なくて、弾きながらいろいろ考えていたら本番なのに涙があふれてしまった。そういう思いで演奏したあの瞬間を一生忘れないと思うし、その時コンサートミストレスとして弾いていた潮田益子先生のお姿も忘れません。

―島田さんは、ヴァイオリンとはどのように出会われたのでしょうか?

私は3歳からヴァイオリンをやっています。実は、私の母が桐朋学園音楽部門の高校と大学のピアノ科卒業生なのです。齋藤秀雄先生のお宅にも伴奏でレッスンに行っていましたし、吉田秀和先生と同じく「子供のための音楽教室」(後の桐朋学園音楽部門の母体)の創設者であった井口基成先生の弟子だったんです。母は弦楽器やオーケストラに強い憧れがありました。私が3歳の頃、テレビでヴァイオリンを弾いている人を見ている時に「これやってみる?」と母から尋ねられ、「やる!」とこたえ、その日からヴァイオリン生活が始まりました。うちは普通のサラリーマン家庭だったので、当時はレッスンの月謝や小さなヴァイオリンの購入費などは、母がピアノを教えて稼いだお金だけで賄ってくれたらしく、とても感謝しています。あるところまでいったら父が支援してくれるようになったのですけど。

― 一番最初に音楽の楽しさに目覚められたのはいつでしたか?

最初に音楽の楽しさを知ったのはオーケストラでした。地元の名古屋にNHK名古屋青少年交響楽団というオーケストラがあり、そこに入りました。最初の入団試験に落ちましたが、どうしても入りたくて、もう一回挑戦したら受かった。小学3年から中学2年まで毎週末練習に通いました。色々な楽器をぼーっと見ながらピッツィカートの表示が終わってもいつまでも弦をはじいているような子でしたけど、とにかく楽しくて、それだけでヴァイオリンを続けてきたようなものです。個人練習は大嫌いでしたけど(笑)。そこでは、ベートーヴェンの交響曲〈運命〉やドヴォルザークの交響曲など、本当にたくさんの曲を弾きました。それに山田一雄先生が指揮されたり、フランス公演ツアーもしたりと、恵まれたオーケストラでした。私にとっての音楽の楽しさの原点はオーケストラです。

―本格的にヴァイオリニストを目指そうと思われたのはいつ頃ですか?

とにかく私はきちんと練習をしない子供だったので、まさか音楽の道に進むなんて誰も思っていなかったのです。中学3年生の時に全日本学生音楽コンクール中学校の部で全国1位を取ったことがきっかけで高校受験を音楽科に絞り、東京芸術大学附属高校へ。でも入学後は一人暮らしが嬉しくて3年間遊んでばかり。それから東京芸術大学に入学したものの、また遊びまわっていた時、二十歳になり「日本音楽コンクールに本気で挑戦してみよう」と思い、やる気になってがむしゃらに練習を再開した。その時、先程申し上げた通り、左手を壊したんです。3歳の頃から当たり前にヴァイオリンを弾く生活をしてきたのが突然出来なくなり、結局痛くて3カ月弾けませんでした。最初の1カ月は家で、「もしヴァイオリンを一生弾けなかったら何ができるだろう…」と考えていたのですが、2カ月ほどたつと「やっぱり音楽が好きだ」という気持になり、考えれば考えるほど「どうしてもヴァイオリンが弾きたい!」と強く思ったのです。それからは外科や草津温泉、鍼、マッサージ、整体など、治療のために全て試し、最後に藁をもすがる思いで出会ったのが、弦楽器専門のリハビリの先生。それから2年間リハビリに取り組みました。

一方で、演奏面に関しては店村先生に出会えました。色々な方に助けられもう一度ヴァイオリンを弾けるようになり、故障以前より真剣に取り組むようになったその時、「ヴァイオリンを一生弾いていく」と決めました。失って初めて「他の何を捨ててもいい、私はこんなにも音楽が好きだ」とあらためて気づいたのです。

―ヴァイオリンを弾けなかった3カ月が、まさに人生のターニングポイントだったのですね。

二十歳って、人間としても夢いっぱいで、いい時期ですよね。でも私は絶望のどん底にいました。だからこそ、その後ヴァイオリンを弾く一瞬一瞬が本当に愛おしかったです。ヴァイオリニストの歩みとしては遅いと思いますが、自分が好きでやっていることなので、責任を持ってやっています。

―今のご活躍の陰には、そのような挫折のご経験もあったのですね。

実は私、第66回日本音楽コンクールで2位を受賞した際は、まだリハビリの最中だったのです。だからその時は左手の小指を使わず、それ以外の3本の指で課題曲を弾き切ったのです。だけど壊す前より上手になっていました。だからそれまでいかに練習していなかったか(笑)。でも、やればできると感じました。

―その後ドイツのデトモルト音楽大学へ留学されました。どのような勉強をされていたのですか?

ドイツには6年間いたのですが、田舎だったので練習以外やることがないし、あまり日本人もいなかったこともあり、まっさらな新品のスポンジみたいに思いきり吸収できたと思います。「ドイツ作品」への洗礼も、その時にしっかりドイツ人の教授陣に受けました。“ゲーテのファウストを読まずにベートーヴェンは弾けない”と言われて、原語で苦労して読んだり・・・。ドイツ人の考え方や哲学って、日本と全然違うと思うし、ドイツ作品の音の出し方やアーティキュレーションや解釈の仕方も、知らなければできないことなので、6年間どっぷりドイツで勉強できて本当に良かったと思います。私の先生はイタリア人で「コンクールなんか受けずに、それぞれの作曲家のスタイルを学びなさい。1曲やれば、その後どんな作品を弾くことになっても、その作曲家の言語がわかるから」とおっしゃり、あらゆる作曲家の作品を1 曲ずつ丁寧に、1小節に1週間かけるようなペースで学びました。だから私、今でも人よりペースが遅いのです。日本はスピードが速いし、まわりの人も忙しそうにしているからそうしなきゃ、という気持ちになるけど、私はそういうのが全然ありません。今でも「1か月間何もしないでこの協奏曲のために生きる」というような感覚を持っているのは、デトモルト生活があってのことです。

―その他、留学生活で特にどんなことが印象に残っていらっしゃいますか?

デトモルト以外でも、フランスやオランダでいろいろなプロジェクトに参加したり、バロック音楽を勉強したり、ドイツ国内でも色々なマスタークラスに行きました。室内楽の愉しさを覚えたのも留学時代で、デトモルト音大教授だった今井信子先生には、本当にさまざまな室内楽を一緒に弾きながら教えて頂きました。

あと、その頃は親からの仕送りを全くもらわず、奨学金や日本でのお仕事を留学生活の資金にしていました。つまり日本に出稼ぎにいって、そのお金で勉強していたのです。最初は、ドイツで銀行口座が開けずに2日でスイカ1個しか食べられなかったりして結構貧乏でしたけど。だから日本でお仕事をいただけて本当に有難かったです。お金をもらうだけでなく、勉強もさせていただき、素晴らしい人とも出会えて。それをドイツに持ち帰って学費や家賃を払い、またお客様に聴いてもらうために勉強する。そういう生活は大変でしたけど、「なぜ音楽をやっているか」という問いに対して、自分は好きでやっているし、お客様に聴いてもらい、芸術の高みを目指すためにやっているという軸はずっと失われなかったです。

―現在はソロ、室内楽、オーケストラと、各地で精力的に活動されている島田さん。そのエネルギーの源はどのようなところにあるのでしょうか?

私、音楽そのものがすごく好きなのです。接していると、「この世にこんなにいいものは他にない」と思うのです。だからそれを素晴らしい方たちと一緒に弾けることが喜びですし、モチベーションや強さにもなっていると思います。それから、これまで水戸のお客様にもたくさん支えて頂きました。長年のMCOファンの方たちに名前や顔を覚えていただき、匿名で差し入れを頂いたり、私のブログにコメントを頂いたり…若い方からご年配の方まで性別問わずいろんな方が励ましてくださいました。ぜひこの場をお借りして感謝申し上げたいです。これまで積み重ねられてきたMCOの歴史の中で、皆様が作ってこられた愛情の一片を私にもくださって、本当にありがとうございました。

―今後の目標について、教えていただけますか?

あまり具体的なビジョンはないです。でも私、思い描いていたことがいろいろと叶っているんです。MCOでずっと弾かせて頂きたいと思っていたら、今後参加させていただくことが決まり、また、ベートーヴェンやサン=サーンスのヴァイオリン協奏曲を中学生の頃から「弾きたい、弾きたい」と思っていたら、最近ついに弾くことができたのです。ですので「大好きな作品をこんな音で弾きたい」「そんな音が出せるように生きる」というのがいま一番の夢です。やはり、いただいたチャンスの中で自分の理想通りに弾くというのが一番難しいことですし…とにかく一歩一歩です!

―今後ぜひ挑戦したいという作品はありますか?

J. S. バッハ作曲のヴァイオリンのための作品の全曲演奏。私は作曲家の中ではバッハが一番好きです。でもそれもあくまで目先の目標で、それができたら次は違う作曲家の作品がある。音楽をやっていれば夢は見続けられる。私はたまたまヴァイオリンを選んだけど、ヴァイオリンを弾き続けていればいくらでも音楽への夢や目標が出てくると思うので、それをひとつずつ大切に叶えていこうと思います。

―MCOの楽団員としての抱負を改めてお聞かせいただけますか?

吉田秀和先生や潮田益子さんが亡くなられた今思うことは…私はお二方に一番長く接した最後の世代だと思います。その中で自分は、お二方や小澤先生を含め、先生や先輩方に教えて頂いたことをこれから伝えていく世代だという気持ちが強いです。長く音楽に携わられた方々と一緒に音楽を出来ることが、まず貴重なことです。だからそういう姿を絶対忘れませんし、代わりにはもちろんなれませんが、精神を受け継ぐことはできる。それが今、責任をもって思うことです。そして、メンバーやスタッフの皆さん、お客様と、ずっと一緒に音楽を分かち合っていけたらと思います。また、これだけの個性をお持ちの方々の中に入るからには、私もいつかそうなりたいと思います。でも努力してなれるものでもないので、これまでに積み重ねたものの上に、また経験を積み重ねて…自然体でやっていきたいと思います。

―たくさんの貴重なお話をどうもありがとうございました。

2013年7月4日
聞き手:高巣真樹(水戸芸術館音楽部門)