チケット

【重要なお知らせ】

  • 音楽

2018-06-24 更新

「今昔雅楽集 七夕の宴」特別寄稿 元国立劇場演出室長・木戸文右衛門氏 

7月7日(土)の雅楽公演「今昔雅楽集 七夕の宴」で演奏される、武満徹作曲〈秋庭歌(しゅうていが)〉と芝祐靖復曲〈曹娘褌脱(そうろうこだつ)〉は、それぞれ1973年と1981年に国立劇場で初演・再興初演されました。これらの国立劇場の雅楽公演を長年プロデュースされてきた木戸文右衛門(敏郎)氏に、今回の演奏会のために、当時の新作雅楽委嘱プロジェクトについてご寄稿いただきました。

長らく宮中儀礼で演奏されてきた雅楽は、戦後、コンサートで演奏される機会が増え、とくに国立劇場が設立され、定期的な雅楽公演が始まった1960年代からは、鑑賞される芸術としての側面が重要視されるようになります。歴史を刷新して新しい雅楽を創ろうとする音楽運動は、反発や拒絶に遭いながらも、ずっと続けられてきました。今日では「新しい古典」とさえ言える〈秋庭歌〉も、そうした運動から生まれた作品です。

〈秋庭歌〉が生まれた1970年代の雅楽をめぐる状況を伝える、貴重なドキュメント・エッセイ。どうぞお読みください。

 


或る音楽運動の発端と航跡

木戸文右衛門(元国立劇場演出室長)

 武満徹作曲〈雅楽 秋庭歌〉を初演したのは昭和48年(1973)10月、場所は国立劇場大劇場、演奏は宮内庁式部職楽部であった。計画ではその前年初演の予定であったが、武満氏の作曲が間に合わず、1年先送りしたのであった。

「今どうしても書けない。来年まで待ってほしい。1年延ばしてくれれば来年はきっと木戸さんが誇りを持って世に問うことができるものを書くから、それまで待ってほしい」

 言い出したら頑としてきかない。もっともこういうことは委嘱初演作品ではよくあることだ。その年は雅楽の古典で穴埋めして、翌年を期待することにした。

 作曲を委嘱する際、私はいくつかの条件を付けることにしている。まず第一に雅楽の楽器のみによる作曲であること。そして雅楽以外の楽器は一切含めないこと。次に宮内庁楽部の楽師が演奏することが可能な作曲であること。最後に曲名は日本語であること。

 翌年約束通り武満氏が書き上げて持ってきたのが〈雅楽 秋庭歌〉である。

「僕の作品の中では保守的な作品になりました。雅楽で書くとこうならざるを得ないんですよ」

 曲名の〈秋庭歌〉の頭に「雅楽」の2文字が付いていて、これは必ず付けるようにと念を押された。保守的な作品になったことの言い訳のように感じられた。私が出した委嘱の条件の下では書きにくかったようだ。楽器は唐楽の全楽器に高麗笛(こまぶえ)を追加した雅楽楽器全種類を使い、これらをドリア旋法でまとめていた。

 委嘱の条件を決めるのはディレクターの責任である。ディレクターとはディレクションを決める人。ディレクション(方向)、それは進むべき方向のことだ。雅楽をどのような方向に持ってゆくべきか。委嘱する際の条件に私は次のような注釈を付けることにしている。――必ずしも名曲であることを望まない。この作品を演奏することで雅楽の体質改善に役立つような作品を書いてほしい。

 この条件の下で雅楽の楽器による作曲の委嘱を思い立ったのには、私の或る原初的な経験があった。永年儀礼文化として継承されてきた雅楽には、楽曲構造や演奏の仕方などに儀礼文化にありがちな形骸化が見られ、退嬰的なものになっていることは否めない事実である。宮内庁という特殊な環境の中ではこれで良いだろうが、しかし劇場という場では芸術音楽として鑑賞に耐え得るものであるべきだ。それには現行の儀礼文化としての雅楽の枠を一旦脱構築して雅楽の原点に立ち返り、改めて原点から芸術音楽としてやりなおすべきだ、と考えたが、さて帰るべき原点とは何か。

 国立劇場開設(昭和41年(1966))以前、私は文化財保護委員会(現 文化庁)で同劇場の設立準備に携わるかたわら、無形文化財行政にも関わっていた。その頃、宮内庁楽部の稽古場で突然これまで聴いたことのない燦然たる響を耳にした。それは大地の底から湧き上がってきたようなエネルギッシュな音であった。

 楽師達は演奏に入る前にそれぞれの楽器を調整する。全体の音のチューニング以前の個々の楽器の作業である。篳篥はリードをお茶で湿らせ、笙は逆に火鉢であぶって湿気を追い出し、エアリードの笛は吹き鳴らしながら唇と吹き口をなじませる。箏は柱(じ)を、琵琶は軫(しん=いとまき)を、鞨鼓は紐を調節してピッチを整えるなど。楽師全員が同時にそれぞれの手順で進める際のばらばらの音が、あちこちで衝突しながら一つにまとまった音の塊が燦然たる輝きを放っていたのだ。通常の上品で雅で﨟たけた雅楽と同じ楽器にこんなエネルギーが潜んでいたとは、雅楽のルーツのシルクロードの音楽のDNAが表れたのだと思った。古代シルクロードの極彩色の壁画の断片を見る思いであった。しかし楽器の調整が整って古典の練習に入るともう先刻の輝きは失せて、通常の雅楽であった。今一度立ち返るべき原点は歴史でも古典でもない、楽器こそ原点であることを確信した。

 雅楽の楽器による新しい作曲委嘱の第1回に、前衛作曲家の中では体制寄りと見られていた黛敏郎氏を選んだのは、新しい作品の演奏を拒絶する勢いを見せていた宮内庁の楽師達の矛先を少しでもかわすためであったが、殆ど効果はなかった。結局激しい拒絶に遭い、その時の楽長(安倍季巌氏)の理解によって何とか初演にこぎつけたのが、昭和45年(1970)初演の〈昭和天平楽〉である。演奏は宮内庁楽部、場所は国立劇場大劇場。

 〈昭和天平楽〉には古典には無いエネルギーが感じられたが、その音には楽器を整える際のあの燦然と輝くばかりに美しい響は全く表れなかった。それどころか時々汚いとすら感じられる不協和な音が表れることもあった。その箇所では何度練習しても同じような汚い音が表れた。楽譜で確認すると、そこはきれいな和音構造になるように作曲されている、にもかかわらず雅楽の楽器で演奏すると表れる音は汚い音になる。

 〈昭和天平楽〉は大部分が一般的な現代音楽の語法で作曲されていて12平均律に拠っている。つまり洋楽器の音で培われた作曲法である。洋楽器は音の情報量を音高に特化し、それ以外の情報量(音色、音圧、音質、音量、持続等)のばらつきを可能な限り抑える方向で改良されているから、音高の和音構造に他の情報量が邪魔になることはない。ところが雅楽の楽器はもともとは古代シルクロードの楽器の寄せ集めで、それぞれの楽器の音の情報量は不揃いである。例えば音色だけでも、篳篥のリードは葦で草笛のような音、笙のリードは金属で鋭い突き刺さるような音、笛はエアリードで風のような音とさまざまである。アカデミックな音楽理論ではこのような多様な情報量を多く含んだ音は噪音と呼んで楽音と区別している。これらの楽器で音高の和音を作ろうとしても、他の情報量が邪魔をして不協和とならざるを得ない。これが〈昭和天平楽〉に表れた汚い音の原因だ。

 武満氏は私が貸した〈昭和天平楽〉のレコードを聴いて構造分析をした。返しにきた際、「何度も聴きました。非常に良く書けていると思いました。コンサートで聴いたときはそれほどとは思わなかったけれど」と言った。

 確かに〈雅楽 秋庭歌〉は〈昭和天平楽〉の良いところは全部取り入れ、悪いところはうまく排除している。その結果一般的な洋楽旋法ではなく全曲がドリア旋法に拠っているのだ。ドリア旋法が雅楽の旋法に近いことは周知のことである。実は私が〈昭和天平楽〉の経験を踏まえて武満氏に委嘱したのは、このことを期待してのことであった。武満氏にはこれ以前に〈地平線のドーリア〉というドリア旋法の傑作がある。この曲は聴き方によっては殆ど雅楽だ。だから武満氏に雅楽楽器のための作品を委嘱すればどんな曲になるかということは、おおよそ予測がついていた。そして予測通りの作品ができた。まるで〈地平線のドーリア〉の雅楽ヴァージョンのような感じすらする。演奏家の人数が17名というのも偶然の一致だろうか。ドリア旋法を選んだということで勝負はついた。とうとう雅楽楽器の扱い方について鉱脈を掘り当てることができたと思った。しかしここには私を新しい音楽運動に駆り立てたあの燦然たる輝きを放っていた響はなかった。あのエネルギー源を探すことが私の宿題として残った。

 昭和45年(1970)の大阪万国博覧会でドイツ館がパビリオン内にコンサートホールを設け、カールハインツ・シュトックハウゼン本人の立会いのもとで彼の作品の連続コンサートを行っていた。ここで私ははからずも宮内庁の練習場で衝撃を受けたあの燦然と輝く響と同質の音を耳にした。偶然の一致というにはあまりにも同質のトーン・クラスター(音塊)である。

 私は休憩時に楽屋へ飛び込んで、シュトックハウゼンに雅楽の楽器のために作曲することを要請した。彼は最初は「そんな夢のような話に付き合っている暇はない。わたしは非常に忙しい」と撥ね付けた。「これは夢ではない。現実だ」と応酬してより具体的に説明すると、ようやく向き直ってくれた。これが具体的に実現したのが7年後の昭和52年(1977)に初演した〈歴年――《リヒト》より〉である。このとき彼が説明でしきりと強調していたのが、音のプンクト(点)ということであった。点は引き伸ばされて線になり、線は束ねられて群となる。それぞれ勝手に暴れていた情報量はトータル・セリエリズムでコントロールされて燦然たる輝きに変わっていた。彼が提唱していたトータル・セリエリズム(音高とともに持続や音量等の情報量も数列的に操作する作曲技法)はこれらをうまくコントロールする手法だ。あの燦然たるトーン・クラスターの正体はこれであった。

 この作品も演奏家から激しい拒絶にあった。予告のチラシでは「演奏 宮内庁楽部」となっていたが、練習が進むにつれて宮内庁の仕事としてはふさわしくないというクレームが起こり、本番の公演パンフレットでは、同じメンバーながら雅楽紫絃会(芝祐靖氏のプライベートなグループ)の名を借りて演奏した。この経験を踏まえて宮内庁楽部では音楽運動に限界を感じ、楽部で音楽運動に理解のある楽師に民間の優れた雅楽家を交えたより大きな雅楽団体として東京楽所(とうきょうがくそ)を結成して、楽部ではご法度であった声明と共演する舞楽法会など、より幅広い活動を可能にした。また雅楽に対する冒涜という批難をかわすため、「雅楽」という用語を避けて「伶楽」という古語を使うことにして音楽運動を継続した。大勢の演奏家を必要とする〈雅楽 秋庭歌一具〉(昭和54年(1979))はこのようなプロセスの結果可能になったものである。

 〈歴年〉に対する楽壇や東洋音楽学会の猛烈な反発に驚いた文化庁は再演することを禁止。私はそれに代わるものとしてジョン・ケージの〈RENGA(連歌)〉や一柳慧の〈札幌〉など図形楽譜による雅楽の演奏で音楽運動を継続。〈歴年〉がようやく再演され陽の目を見たのは初演から37年が経った2014年、サントリーサマーフェスティバルで雅楽ヴァージョンと洋楽器ヴァージョンを日替わりで演奏した時。野性を温存しながら複数の情報量を巧みにコントロールした雅楽器による演奏が断然燦然たる輝きを放っていた。