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2021-02-07 更新

オルガン・レクチャーコンサート Vol.2
廣江教授の謎解きファイル「タイトルの秘密」
講師&演奏:廣江理枝さんインタビュー

廣江理枝さん

3月7日の「オルガン・レクチャーコンサート Vol.2 廣江教授の謎解きファイル『タイトルの秘密』」で講師・演奏を務めるオルガニストの廣江理枝さん(東京藝術大学オルガン科教授)にインタビューを行い、 オルガンとの出会い、ドイツ留学で感じた文化の違いなどについてお話しいただきました。ご本人からご提供いただいた貴重な写真の数々と共に掲載いたします。
 
目次
オルガンとの出会いと再会

ドイツ留学 
~北部ハノーファーと南部シュトゥットガルト~

コンクールへの挑戦

日本とヨーロッパ 文化の違い
 

■オルガンとの出会いと再会

――オルガンとの出会いはいつだったのでしょうか?

 オルガンの音を初めて聴いた時のことは鮮明に覚えています。中学・高校は青山学院に通っていましたが、それまでキリスト教や礼拝について全く知識がありませんでした。中学の入学式で、大きな講堂の舞台上になにやら大きな鍵盤楽器のようなものが置いてあるな~、と思っていたらそこから凄い音がして…。それはスピーカーから音が出る電子オルガンだったのですが、「何なんだこれは?!」と思った瞬間は忘れられないですね。その前からピアノを習ってはいたのですが、ピアノと同じような手の鍵盤だけでなく、足鍵盤があって、全く知らない楽器のようなものからその凄い音が出る、ということにとても驚きました。
 
 中学2、3年になると選択授業という形でオルガンを習える時間がありました。その2年間、先生にも教わりつつ自己流で一生懸命いろいろな曲を弾きまくりましたね。授業で弾いたのもその講堂の電子オルガンだったのですが、当時の電子オルガンは今のものとは全く違いました。今の電子オルガンはパイプオルガンの音をサンプリングして本物のパイプオルガンに近い音が出るものもありますが、当時の電子オルガンの音はまさに電子音。それでも凄くオルガンという楽器に惹かれたんですよ。
 
 青山学院は一貫校ですが小学校、中学校、高校、大学は別の建物なので、高校では環境が変わりましたが、中学の時と変わらず毎日礼拝がありました。1000人以上の生徒が講堂に移動して毎朝礼拝をおこなっていたのですから、凄いことですよね! 高校の講堂にはクロダトーンという、今はもう作られていない電子オルガンがありました。オルガンはとても好きでしたが、その時は自分がそんなにオルガンに向いてるとも思わなかったですし、環境もなかなか整わず、高校でオルガンを続けるには至りませんでした。一方ピアノは続けていて、桐朋学園大学ピアノ専攻に進みました。
 

――一度オルガンから離れたわけですね。再びオルガンに触れたのはいつのことなのでしょう?

 大学4年生の頃、きっかけがあってしばらく離れていたオルガンと再会しました。もうすぐピアノ科を卒業するし、ピアノを続けつつ趣味でオルガンをやってみようかな~なんて思ったのが運の尽きで、現在に至ります(笑)。高校生の時は進路指導があるのでなにか1つの道を選んで、進学して、それを将来につなげなければいけないという意識が強かったのですが、大学を卒業する頃になるとオルガンをやっても許されるのではないかなと思ったんですね。オルガンを再び始めたときにはすでに大学4年生、歳が歳なので自分にすごくプレッシャーをかけて急いで練習をしなくては!と思い、ものすごく無理をしていろいろなことをやってきた感じです。

 大学を卒業してすぐに東京藝術大学別科(2年間で実技のみを学ぶ)に入り、その後大学院へと進みました。今考えてみると無謀だったんですけど、別科2年の時にオルガン科の大学院に進もうと決心しました。当時はおおらかな環境で、そのようなチャレンジも受け入れてくれたんです。私が大学院の修士1年生だった1990年にちょうど水戸芸術館が開館して、藝大の修士課程を修了された室住素子さんが音楽部門の学芸員を務めていらっしゃいました。「プロムナード・コンサート」では演奏する機会を数多くいただき、足しげく水戸に通いました。それこそ行けるときには行かせていただくという感じでした。
 

――当時の「プロムナード・コンサート」の記録をひもとくと、ほぼ毎週土曜日曜、それぞれ違うオルガニストを迎えて開催していました。数えてみると廣江さんは合計33回水戸芸術館で演奏していらっしゃいました。
 
 水戸芸術館で大オルガンを深夜まで思う存分練習できたことは、学生にとって貴重な経験でした。叶うことなら土日ずっと水戸に居てオルガンを弾いていたいと思っていました。今思い返すとあの頃はオルガンに対する情熱に燃えていましたね。本当にオルガンが好きだったんだなと思います。私が藝大に在学していたころは、練習できるオルガンの台数は今より少なかったですね。今、レッスンで主に使っている楽器が藝大に来たのが1993年、私が留学した後でした。なので本当に限られた環境の中で練習をしていたと言えますね。
 
 
■ドイツ留学 ~北部ハノーファーと南部シュトゥットガルト~
●写真は廣江さんからご提供いただきました。


ハノーファーの教会での練習風景

――1992年からはドイツにご留学されていますね。ハノーファー音楽大学とシュトゥットガルト音楽大学で学ばれていますが、それぞれどのくらいの期間留学されていたのでしょうか。
 
 ハノーファーには藝大の大学院を休学して留学したので、2年間で帰国しなければなりませんでした。帰国後、大学院を修了してから1995年4月からシュトゥットガルトに渡りまして約3年留学しました。そのあと2006年までずっと居残って演奏活動を続けていました。
 
――11年間もシュトゥットガルトにお住まいだったのですね!
 
 ええ。その後も多い時は1年に4回ぐらいシュトゥットガルトに行っていますので、今でもあの街は自分の故郷のような感覚があります。


シュトゥットガルトの日本語教会におけるクリスマス礼拝で共演した、トランペット奏者の栃本浩規氏(現・東京藝大准教授)とともに
 
――ハノーファーとシュトゥットガルト、2つの街の大きな違いはどのような点でしょうか?
 
 私はドイツ北部のハノーファーに行った後に南部のシュトゥットガルトを訪れたので特にそう感じたのかもしれませんが、シュトゥットガルトは言葉の訛りがきついなという印象を受けました。この街はシュヴァーベン地方にあたるのですが、そこの人々や方言はシュヴェービッシュ(Schwäbisch)と呼ばれています。生粋のシュヴェービッシュの人たちが話していると今でもちょっと分からないぐらい標準ドイツ語とは違う方言なんです。でも私には南部の人たちはなんとなくおおらかで開放的に感じられました。

 一方北部のハノーファーは、ホッホドイチュ(Hochdeutsch)という標準ドイツ語を話す地域。私が初めて行ったドイツの街だったわけですが、なんとなく人が冷たいな、というところが無きにしもあらずでした。特にあの時代は難民の人々が多い場所だったので、外国人に対して風当りが強いという印象がある土地柄だったんですね。そんなこともあり、シュトゥットガルトに行ったときには開放的な土地柄でホッとしたというのもありましたね。今行くとハノーファーもとても良いところなので、当時は自分の状況も相まってそのように捉えてしまったということがあるかもしれません。

 
――月並みなたとえですが、日本で言うと東京と大阪のような人の違いがあるのでしょうか?
 
 ありますね。私は大阪の人の方が開放的で面白いんじゃないかと思います。長らくドイツに滞在した後、帰国して東京の電車に乗っているとやっぱり冷たいな、と思ってしまうことがあります。良く言えば他人に干渉しないということでしょうけど、裏を返せば人に無関心。でも大阪で電車に乗っていると話しかけられたことはありませんか?
 
――ありますね、おばちゃんやおじちゃんに(笑)
 
 そうそう、大阪にはそういう気軽さがありますよね(笑)。それと全く同じではありませんが、ハノーファーからシュトゥットガルトに移った時、東京から大阪に行った時のようなホッとした感じがありましたね。音楽大学に関しては、シュトゥットガルトの音大はオルガン科の学生にとっては聖地のようなところなんです。素晴らしい先生たちが揃っていますし、今ではいいオルガンがたくさんあります。私が留学していたころはちょうど新しいオルガンが学内に入り始めた時期でした。学生の人数も多くて、先生たちも熱心で、充実した留学生活を送ることができました。今でもオルガンに関してドイツ国内最高峰なので、留学するにはオススメの学校です。
 
――そうなのですね! ドイツだとハンブルクやリューベックなど北ドイツに留学される学生さんも多いようですね。
 
 それらの都市で勉強する利点の一つは、周りに数百年前の歴史的なオルガンが多いという点ですね。シュトゥットガルトのオルガンは第二次世界大戦の戦災で全て失われてしまったので、何百年も前のオルガンはないのです。痛ましいことですよね。


北ドイツ・ノルデンのルドゲリ教会にて、アルプ・シュニットガー(1648-1719)が製作した有名なオルガンで練習中
★廣江教授のコメント
「今でも最も好きなオルガンのうちの一つです。ハノーファー音大で栄誉教授だったハラルド・フォーゲル先生の講座で訪問し、一晩中弾いていました。」

 
■コンクールへの挑戦


1993年、ロンドン郊外のセント・オーバンスで開催された国際コンクールでは審査員特別賞を受賞。
参加者集合写真(上)には現・エアフルト大聖堂オルガニストのシルヴィウス・フォン・ケッセル氏、
フランスのオルガニスト、パスカル・メリス氏、ハンブルクの聖ペトリ教会オルガニスト、トーマス・ダール氏なども写っている。


――廣江さんは数々の国際コンクールで輝かしい成績を残されていますね。コンクールを受けたときのことお聞かせください。
 
 全部合わせると10以上のコンクールに参加してきました。なぜそんなにコンクールを受けたのかはよく覚えていないのですが、「人よりオルガンを始めたのが遅いのだから人一倍頑張らなくては」、「とにかくコンクールで賞とらなくちゃ」と当時の私は考えたのだと思います。コンクールは参加年齢の上限を30歳ぐらいに設定しているところが多いのですが、ドイツに渡ったときにはもう20代後半。残された時間が少ないのでプレッシャーとの闘いでした。コンクールは様々なジャンルの曲を一定のレヴェルで演奏できる技術が求められるので、いろいろな曲を練習するいい機会になりました。コンクールを通じて自分を成長させることができたと思います。

 1992年の留学前には、イギリスのセント・オーバンスのコンクールに日本から行き、計2回受けました。ライプツィヒの国際バッハコンクールも2回、あとはデンマーク・オーデンセのコンクールやシュパイアー大聖堂国際オルガンコンクール、武蔵野市国際オルガンコンクールやプラハの春国際音楽コンクールなども受けました。



1996年、ライプツィヒの国際バッハコンクールにて。
オルガン部門は4名がファイナルラウンドまで進んだが、1、2、3位全てなし、
スコアが最も高かった廣江さんが「特別奨励賞」と「MDR(中部ドイツ放送局)特別賞」を受賞した。
授賞式(下)の左から2番目にはヴァイオリン部門で優勝した玉井菜摘氏(現・東京藝大教授)も写っている。


ライプツィヒ国際バッハコンクールの「MDR(中部ドイツ放送局)特別賞」の副賞として開催した、中部ドイツ ミュールハウゼンのディヴィ・ブラジー教会での演奏会に際しての写真。
この教会は1707~08年、J.S.バッハが教会オルガニストを務めたことでも知られている。


他の時代のレパートリーを弾けないのはなかなか辛かったのですが、1年間だけ集中的に古楽の勉強をした時期もありました。そのまとめとしてブルージュ国際古楽コンクールを受けたら、2位をいただくことができました。そして最後に受けたのが1998年、フランスのシャルトル国際オルガンコンクールでした。



1997年、ブルージュ国際古楽コンクールの受賞祝賀会にて、審査員のロレンツォ・ギエルミ氏(上)、ミヒャエル・ラドゥレスク氏(下)とともに


――シャルトルは世界で最も権威のあるオルガンコンクールの1つですね。そこで見事アジア人初の優勝という快挙を成し遂げられました!

 いろいろなコンクールで賞をいただけたことで、シャルトルも受けてみようと思いたちました。今考えるととても恵まれたことだったと感じています。他のコンクールで残念な結果が続いていたら、シャルトルも受けなかったでしょうから。シャルトルのコンクールでは、表彰式のすぐ後に受賞者演奏があるので、参加者は結果が分かる前にあらかじめ曲を決めておきます。結果発表後、すぐに大聖堂の上の方にある演奏台にハアハアと息を切らせながら登って行ったことをよく覚えています。その時は審査員をしていたフィリップ・ルフェーブルさんも演奏することになっていたのですが、彼は「君、先に弾いて」と言って演奏台の脇でたばこ休憩。下手するとくわえたばこで弾くことも! 教会ではオルガンの演奏台が下の人から見えない場所にあるとはいえ、火事になったらどうするんだ!と驚きましたね(笑)。

 今はコンクールに審査員として呼ばれる立場になりましたが、過去にコンクールでコンペティターとして競った奏者が、今は偉い教授になってコンクールの審査員席で再会するということもありますね。




1998年、シャルトル国際オルガンコンクールにて
(上)本選でコンペティターはオルガンがある階層に数時間隔離される
(中)結果発表を待つファイナリストたち
(下)祝賀パーティーでフランソワ・エスピナス氏(現・ヴェルサイユ宮殿王室礼拝堂オルガニスト)とともに


 
■日本とヨーロッパ 文化の違い

――留学時代、文化の違い、習慣の違いなどで驚いたことはありますか?
 
 いろいろあったでしょうけど、今は中身がドイツ人みたいになっちゃってるのでなかなか思い出せないですねぇ(笑)。あっ、1つ思い出しました! ハノーファーに留学時代、師事していたオルガニストのウルリヒ・ブレムシュテラー先生がやっていらっしゃった合唱団に参加していて、その演奏会でのことです。演奏会前に黒い衣装に着替えるわけですが、控室が男女分かれていないんです。異性がいても全く羞恥心もなく、みんな平気で服を脱いで着替え始めたんです。これがドイツなのだな~と思いました(笑)。当時の私にはカルチャーショックでしたね。この感覚は今でも変わっていないようで、2019年の秋にジルバーマン国際オルガンコンクールの審査員をしたときにも似たようなことがありました。使えるトイレは男女共用でした。日本だったら女性が入ってきたら男性は出ていくと思いますが、ドイツではそんなことはなかった(笑)。

 この感覚はドイツに限らずヨーロッパが全体的にそうなのかもしれませんが、逆に考えると日本の方が特別だと思いました。大陸の人たちからすると「そんなことが恥ずかしいの?」と思うことが日本人にとっては恥ずかしいこともある。

 これを深く考えていくと、日本人がヨーロッパに行って勉強や演奏をするときに問題になることでもあると思います。日本人が打ち破らなくてはいけない殻のようなものを強く感じましたね。そしていざ殻を打ち破って日本に帰ってくると、それはそれで日本人としてはどうなのかしら、っていうことになる(笑)。ヨーロッパでは当たり前だけど、日本では当たり前ではないことがたくさんあり、藝大で教え始めた後も10年ぐらい葛藤していました。「日本ではこれじゃだめなんだ、日本人にならなくちゃ」って。

――ドイツから帰国後、2006年から東京藝大のオルガン科非常勤講師を務め、1年後には助教授に、2017年には教授に就任されました。今は演奏活動に加え、指導者としても第一線で活躍され、多くの優秀なオルガニストたちを輩出されていますね。
 
 各地で活躍している元・教え子がたくさんいて、本当に頼もしい限りです。決して私が“輩出”したわけでなく、学生の皆さんが努力を重ね、それに少しだけ関わらせていただいたということだと思っております。
 
――今回のオルガン・レクチャーコンサート Vol.2は「廣江教授の謎解きファイル『タイトルの秘密』」と題し、過去2,700回以上にわたる水戸芸術館の「プロムナード・コンサート」の演奏曲目の解析結果を元に、演奏や図解を交えてレクチャーいただきます。どのようなレクチャーコンサートを目指されていますか?
 
 2,700回以上というのは凄い数ですよね。なにはともあれ楽しいレクチャーコンサートにしたいと思っています。今までの「プロムナード・コンサート」でよく目にする言葉、例えば“フーガ”とはどういう音楽なのかが分からない方、もしくはなんとなく分かっていらっしゃる方もいらっしゃると思います。その「分からない」「なんとなく分かる」を「分かる」に変えられるようなレクチャーを、難しくならないように楽しくお届けしたいです。話は楽しく、演奏は真剣に(笑)。

 私が最後に水戸芸術館のオルガンを演奏したのは1995年、実に26年前のことでした。これだけの年月を経ると、鍵盤のタッチやパイプの鳴り方にも変化が生じているはずです。水戸のオルガンがどう変わっているのか、それを感じるのも楽しみにしています!


文・聞き手:鴻巣俊博(水戸芸術館音楽部門学芸員)
 

廣江教授がオルガン曲の「タイトルの秘密」に迫るレクチャーコンサートは3月7日(日)開催!(予定枚数終了)
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