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2021-09-22 更新

オルガニスト・椎名雄一郎さん インタビュー



10月3日の「オルガン・レクチャーコンサート Vol.3 『バッハへの道~J.S.バッハに影響を与えた10人~』」で講師・演奏を務めるオルガニストの椎名雄一郎さんにインタビューを行い、 オルガンとの出会いや留学時代のこと、そしてJ.S.バッハがどのように他の地域の音楽を取り入れたかについてお話しを伺いました。
 
―オルガンとの出会いはいつだったのでしょうか?
 
オルガンとの出会いは高校の入学式でした。進学した青山学院高等部の入学式でオルガンの演奏を聴いて心惹かれ、オルガン部に入部しました。実は水戸芸術館の「オルガン・レクチャーコンサート Vol.2」で講師をされていた廣江理枝先生も同じ高校ご出身で、当時大学生だった廣江先生が部活に教えに来てくださっていました。その部活で「あぁ、オルガンって面白いな」と思い、高校2年生の時に東京藝術大学の受験を目指して準備をはじめました。
 
―東京藝術大学オルガン科在学中は水戸芸術館プロムナード・コンサートにも頻繁にご出演いただきました。記録を調べたところ、のべ80回近く演奏をしていただいています!
 
そんなに行っていましたか! 水戸ではヨーロッパの教会のような響きの中で、夜中に自由に練習ができるのが嬉しかったですね。今回コーディネーターをされている室住素子さんをはじめ、当時の学芸員やスタッフの方とお話しをするのも楽しく、いろいろとアドバイスをいただけたことも今に生きていると思っています。
 
―椎名さんはウィーンとバーゼルに留学をされていますね。留学先を決めたのはどのような理由だったのですか?
 
1997年、大学4年生の時にダラス国際オルガンコンクールで第2位になることができ、その賞金を使って夏休み40日間ぐらいかけてヨーロッパのオルガン講習会を10ほど受講しました。その講師の中で一番相性が良く、習いたいと思ったのがJ.S.バッハの研究者としても高名なオルガニスト、ミヒャエル・ラドゥレスク先生でした。先生は「今は学生が多すぎて教えられないので、2年後にいらっしゃい」と言ってくださり、1999年にラドゥレスク先生が教えているウィーンに留学したわけです。
 
ラドゥレスク先生はとにかく学生にコンクールを受けることを勧める方で、私がウィーンに渡ったその月にコンクールのパンフレットをいきなり渡されて「君はこれを受けなさい」と言われました(笑)。日本はヨーロッパと違って教会オルガニストとして生計を立てるのは難しく、演奏家として認められるにはコンクールの受賞歴が大切だということをよく知っていたんだと思います。とても親切な先生だったのですが、厳しい面もお持ちでした。ウィーンでの最初の週のレッスンの後、先生が2週間ほど留守にすることがあったのですが、まだ私が演奏したことがないJ.S.バッハのトリオ・ソナタを「2週間後に暗譜で弾けるようにしておいてね」と言い残してウィーンを離れてしまったんです! 私は2週間死に物狂いで練習したのですが、先生の前で弾いた時に1つの声部が抜け落ちてしまって…そのパートを先生が歌ってくださった、なんていう思い出もあります。コンクールを受ける前には演奏技術の基本を体系的にきっちりと教えてくださり、後々自分が学生に教える番になった時にどのように教えると効果的か、ということまで見据えて教えてくれていたような気がします。ウィーンでの2年間は基礎をしっかりと学ぶことができました。
 
実はウィーンは音楽の都と言われながら、大都市ゆえに古いオルガンはどんどん改良がくわえられたりして、本当に歴史のあるオルガンは少ないんです。また、当時古楽器関係はそんなに進んでいなかった印象があります。古楽器を学びたいという意欲が出てきまして、2年後にスイスのバーゼルに移りました。
 
バーゼルに行った大きな理由は、J.S.バッハ研究で著名なオルガニスト、ジャン=クロード・ツェンダー先生がいらっしゃったということです。ある意味、ウィーンのラドゥレスク先生とは正反対のような方で、「コンクールなんて関係ない」という考えの持ち主でした。でも実はこの2人、ウィーンでアントン・ハイラー(1923-79)に師事した同門生なんです。バーゼルにはスコラ・カントルムという古楽器専門の学校がありまして、そこでウィーンではなかなかできなかったアンサンブルの勉強をしました。バーゼルには18世紀に活躍したオルガン・ビルダー、アンドレアス・ジルバーマンが作った楽器が現存していて、歴史ある楽器が設置されている教会で夜中まで練習することができました。
 
―J.Sバッハの権威である2人の先生に師事されたのですね! そのような留学経験を経て、椎名さんはJ.S.バッハのオルガン作品全曲演奏をされるなど、日本を代表するバッハ演奏家、研究者となられたわけですね。さて、今回の「レクチャーコンサート」で「J.S.バッハに影響を与えた10人」をテーマとしています。ラインケン、ブクステフーデ、ブルーンスといった北ドイツの作曲家が多いのですが、フランスのグリニーやイタリアのヴィヴァルディ、フレスコバルディも含まれています。ドイツを出たことがないJ.S.バッハが当時外国の音楽をなぜとり入れることができたのでしょうか?
 
1648年まで続いた30年戦争の後、世間が落ち着いてきた1685年にJ.S.バッハは生まれました。戦争中は他の地域との交流が絶たれ、各地域の音楽の独自性が深まったわけですが、彼の時代には地域間の交流が再開し、音楽や文化も流通が盛んになりました。また、中部ドイツの音楽自体は特徴が乏しかったため、いろいろな宮廷がフランスやイタリアから音楽家を招いていました。だから中部ドイツに居ながらにして他の地域の音楽を吸収することができたわけです。楽譜を筆写して学んだだけでなく、実際にイタリア人やフランス人の演奏をじかに聴いていた。机上の空論ではなく、演奏に生で触れ、それを生かして新たな音楽を創り出すことができたという点で、J.S.バッハは多面性のある音楽家だと思うんです。そういった中でも、J.S.バッハのオルガン音楽は北ドイツのオルガン音楽に特に強い影響を受けています。彼が北ドイツを訪れる前、すでに中部ドイツにも北ドイツの音楽の楽譜は入ってきていて、ブクステフーデの作品を筆写しています。ただ、実際に北ドイツを訪れてブクステフーデに会って、北ドイツのオルガンの演奏を聴いたことで、J.S.バッハの音楽もずいぶん変わってきている。北ドイツのオルガンは特徴的ですし、オルガン音楽は個々の楽器の特徴と強く結びついていますからね。
 
昨年私がリリースしたCD「バッハの源流を求めて 三大『S』(スヴェーリンク、シャイト、シャイデマン)」は、北ドイツのノルデン・聖ルートゲリ教会のオルガンで録音しました。その土地ならではの特性を持ったオルガンで演奏することにより、作曲家はどのような音色を求めたのかが分かるのではないかと思ったのです。北ドイツのオルガンは、音響的な対比がとても面白いんですね。1段目の鍵盤は聴衆に近いパイプが、一番上の段の鍵盤は演奏者のすぐ上のパイプが鳴る、というようにパイプの設置場所が分かれているんです。ある時は天から音が降ってくる、またある時はダイレクトな音が聞こえきたり、音がエコーのように聞こえたり、というような効果があります。頭では分かっていても、実際にそのような楽器に触れることにより、どのような音作りをすればいいのかということが見えてきて、録音の後、日本のオルガンで演奏する際も私の音作りは変わりました。
 
水戸のオルガンも北ドイツと同じように鍵盤によって鳴るパイプの位置が違いますよね。音響的対比は録音ではなかなか伝わらない部分も多いので、J.S.バッハが北ドイツで感動したであろう響きを水戸のオルガンで再現してみよう、というのが今回の「レクチャーコンサート」の一番の目的です!

(文・聞き手:鴻巣俊博)

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