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2016-07-08 更新
通崎睦美さんインタビュー② マリンバとの出会い~木琴でつながった作曲家・林光さんとのエピソード

――演奏家としての通崎さんの原点についてもお伺いしたいのですが、子どもの頃からマリンバや合唱をされていたそうですね。音楽とはどのように出会ったのですか?
通崎:3つ上の姉が塩竃山上徳寺の一室で行われていた音楽教室に通っていたんです。そこはハーモニカやマリンバ、木琴、リコーダーといった楽器を一人の先生が教えている、寺子屋みたいな器楽教室でした。そこに一緒に通っているうちに、自分もやりたいなと。最初はハーモニカをやったんですけど「違うな」と思って、5歳のとき、横に置いてあったマリンバをやることにしました。うちの親は風呂敷を作っていて、音楽のことは全然わからないのですが、「音楽を習う上ではピアノが基礎なんじゃないの?」と言うので、私はピアノも習うようになりました。それから私は団体行動苦手だったので、「団体行動させた方がいいんじゃないか」という親の計らいで、合唱団に入りました…全然実ってないですけどね(笑)。ガールスカウトか合唱団かと言われて。ガールスカウトっていかにも集団行動だし、泊まりにいったりするのも嫌やなと思って。でも合唱団も、みんなで制服着て並んで歌うとか苦手で、やっぱりソロがいいなと思い、マリンバは楽しくやっていました。あと私、フィギュアスケートも習っていたんです。でもフィギュアはお金かかるから、親が「マリンバうまい!」って私によく言っていました(笑)。両親も楽しんでいましたね。私が発表会で着る洋服をあつらえてくれたりして。だから「練習しなさい」とか「こういう先生に習わせる」とかいうことは全くありませんでした。
――通崎さんがプロの演奏家を目指したきっかけについて教えていただけますか?
通崎:同志社中学校での管弦楽部での経験が大きかったです。そこは中高合同のオーケストラで、ベートーヴェン・ツィクルスなどやっていたんです。「次の演奏会ではベートーヴェンの交響曲第7番をやります」というので、みんな音楽室に集まって、レコードを聴いたんです。そのとき「クラシックすごいな!」と思いました。それまでもマリンバで楽しい曲を弾いていて、音楽好きだったんですけど、シンフォニーみたいにきちんと構築された、40分もあるような曲を聴いたことは…あったはずですけど、その時まではぴんと来てなくて。でもその時は「やられた!」と思いました。最初の和音のジャンっていう響きの厚みがすごかった。それまで私、オーケストラのスコアを見たことがなかったんです。楽譜といえばピアノ伴奏とマリンバの楽譜とか、ピアノ譜しか見たことがなかった。でも先輩が持っていたベートーヴェンのスコアを見たら、これだけ多彩な楽器が一つずつ音を出して同時に進行しているというのが分かって。「これ、縦になっているのか」ということにびっくりしたんです。当たり前の話ですが、当時の自分にとっては大発見でした。壮大なものにふれた気がして。「これやりたい!」と思いましたね。
――ベートーヴェンの洗礼という感じですね。
通崎:ちなみにその頃、中学生の校内暴力が流行っていたんです。暴れる生徒が逮捕されるとか。それで、当時お転婆だった私を見て、親が、「睦美は中学行ったら絶対そういうことやるんじゃないか」と思ったみたいで(笑)。姉が同志社中学校の管弦楽部でフルートやっていたんですけど、いい学校だし、とにかく頑張って入れば大学まで行けるから「同志社に行け」と親に言われて、死ぬ気で勉強して入りました。でも「やはり高校は堀川高校の音楽科に行きたいから、同志社やめます」と親に言ったら、そこでもひと悶着あった。親は「やりたいことはやらせてあげる」という方針でしたが、せっかく大学まで行ける学校入ったのに、また受験で苦労するんですか?みたいな…(笑)。中学の時にはいろんな演奏会に行きまくっていました。ベートーヴェンから、だんだんブラームスやチャイコフスキーを聴くようになり、マーラーも大好きになりました。マーラーつながりで、あと「ドストエフスキーの本を持っていたらかっこいいかな」とか考えているオタクな中学生でしたね。内容はよくわからなかったけど(笑)。
――高校は、名門の京都市立京都堀川音楽高等学校に進学されたそうですね。
通崎:にぎやかな学年で、葉加瀬太郎くんとか一緒でした。当時は80年代半ばで、ちょうど現代音楽が盛り上がってきた頃だったから、いろんな音楽にふれることができました。面白いのが、高校の卒業演奏会の思い出。だいたいみんな大学入試のために準備した曲を弾くんです。一番仕上がっているし、安心して弾けるから。そういう曲を選んでいた子は、今は立派に大学の先生になったりしています。私はバルトークのピアノ曲の編曲を委嘱して、演奏会で渋い曲を弾いて、今に至る。葉加瀬くんは〈ラグタイム〉を弾いて、会場の拍手をあおっていましたね、それで今に至る。三つ子の魂百まで、ではないけど、その頃からやりたいことの方向性が現れていたように思います。
――通崎さんは新しい作品を積極的に委嘱されてますが、当時からその萌芽があったんですね。その後、京都市芸術大学に進学されたそうですが、どんな学生生活でしたか?
通崎:高校・大学は、ずっと練習していました。遊んでもいましたけど(笑)。学校には朝誰よりも早く行って練習。打楽器も全部やっていたから、大阪フィルハーモニー交響楽団とか関西フィルハーモニー管弦楽団の演奏会にエキストラで出させてもらったりもしていました。

手前/楽器メーカー・Leddy(ディーガン社のライバル)の「Marimba-Xylophone」 奥/平岡養一の愛器「Deagan Artist Special Xylophone No.266」
--京都市芸術大学大学院卒業後、本格的に「マリンバ奏者」として活動を始められたのですね。
通崎:ずっと打楽器もやっていましたが、やりたいのはやはりマリンバだと思って、卒業後は自分の肩書を「マリンバ奏者」としました。ちなみに、吉原すみれさんがジュネーブとミュンヘンの国際音楽コンクールで受賞され話題になっていた頃、私は10代でした。中学生の時、レコードを持っていってサインしてもらったのを覚えています。それまでマリンバ奏者と打楽器奏者は分かれていたんですけど、80年代に入って、両方できないとだめだという時代になった。それまでは、打楽器の人はちゃんとリズム刻めて基礎がしっかりしている、マリンバの人はメロディーを好きに弾いている、と思われがちだったのが、だんだんと、両方できるし両方する時代になってきた。1990年くらいに5オクターヴのマリンバが発売されて、4本のマレットで色々できる技術をみんなが取り入れるようになり、この10年くらいはまた分業化してきました。1990年というと、私が大学院を卒業する頃。それからマリンバ・ソロ曲が急激に増えだしました。
--やはり楽器と作品の創作は密接に結びついているんですね。
通崎:そうですね。私が始めた時代のマリンバはヴァイオリンくらいの音域だったのが、チェロの音域まで拡張されたので、下のドまで5オクターヴ半もあるんです。和音と主旋律を一人で弾く技術と、楽器自体の開発、そしてマリンバ人口の増加。こういうことが90年代くらいからぐぐっときて、それが2000年頃から定着したように思います。だから今20代で活躍しているマリンバ奏者は、始めた時から5オクターヴの楽器があったんですよね。80年生まれでも、マリンバ始めた時には先生が5オクターヴの楽器を持っていたという感じです。マリンバって、世代が違うと弾いている楽器が違うというくらい違う。チェンバロ世代とグランドピアノ世代というくらい、今の20~30代と60~70代の人は違うと思う。だから今60~70代の方で、今の技術についていっている奏者のみなさんはすごいなと思います。
--短期間でどんどん流行やスタイルが変化しているんですね。
通崎:マリンバが日本に入ってきて作られ始めたのは50年代で、安倍圭子さんが5オクターヴの楽器をヤマハと開発し出したのが70~80年代。市販されたのは90年くらい。だからフィギュアでいう三回転、三回転半、四回転ジャンプの時代が急に現れた感じです。それまでは直線ですべることが大事だったのが、今はもうジャンプとかスピンの時代(笑)。私が卒業した時は5オクターヴのマリンバが出始めた頃でしたが、当時は「打楽器は全部できないといけない」風潮でした。でも「私はマリンバ奏者です。マリンバ以外の打楽器はやらない人間になります」と宣言しました。もちろん安倍圭子さんなどは、ずっとそうやって活動されていましたが、私たちの世代にとっては当時、そういう宣言はとても勇気がいることだったんです。
――そういう決意があったからこそ、マリンバ、そして木琴についても、新作の委嘱を通じてその楽器の可能性を積極的に広げようとされているんですね。
通崎:特に木琴は分かりにくいでしょう?今ではマリンバの方が一般的なだけに。だから自分でちょっとひねりのあるコンセプトやプログラムを組んで、作曲家の人に聴いてもらったり、見てもらったりしないと、と考えています。マリンバと木琴の違いって誰も知らないんですよね。林光さんとかも「あ、そうだったっけ?」「平岡の演奏は小学生の時に聴いたけど…」みたいな感じでした。でも私、木琴を好きになってくれる人に悪い人はいないと思っているんです(笑)。

作曲家・林光
光先生には大変お世話になりました。エピソードはいっぱいありますよ(笑)。私は、平岡さんから木琴を譲り受けた時、とにかく光さんに作品を書いてもらおうと思い、手紙を書きました。そうしたら木琴の演奏会を聴きに来てくださって、書きますと言ってくださった。大きいものから攻めた方がいいだろうと思って、私、コンチェルトをお願いしてみたんです。そうしたら「じゃあ書きます」と言ってくださって(笑)。そこから光さんが「作品を書いてただ渡すんじゃなくて、何か一緒にやろうよ」みたいなことを私に言ってくださったんです。それで、私が木琴、光さんがピアノを弾くというステージを何回かさせてもらいました。おかげでいろいろつながりが出来て、「音楽教育の会」とか各地の演奏会にも呼んでもらうようになりました。
――林光さんとお二人で共演もなさっていたのですね!
通崎:ちなみにみんな未年なんですよ。光さんも、吉田秀和賞の審査委員長を務められた杉本秀太郎さんも。その上が平岡さん。つながりが色々ある(笑)。
ちなみに光さんがエネスクという作曲家を初めて知ったのは、小学生の頃、平岡さんが〈ルーマニアン・ラプソディ〉を演奏しているのを聴いたのがきっかけだとおっしゃっていました。光さんにはいろいろ教えていただきました。例えば〈チャールダッシュ〉という曲。みんながアンコールで弾く定番曲というイメージだったんですけど、光さんとこの曲をやった時、前半終わりの音、ニ短調の和音の響きが、聴いたことのない悲しさというか憂いがあったんです。短調は暗く、長調は明るくって当たり前の話ですけど、光さんのピアノで聴くと、こういう深い暗さのある響きなのか…と思いました。
それに、音楽の楽しさは言葉なしで共有できるとも強く感じられました。お人柄もすごく尊敬できる。相手を対等に見るところがすごいですね。「私の作品を弾いていただけますか?」というふうにおっしゃるんです。それは相手の機嫌をとるでもなんでもなく、「自分の書いた音楽を弾いていただけますか?」という言い方。光さんが書いてくださった作品を初演した時も、私が礼状を書く前に向こうから礼状が来た。「弾いていただいてありがとう」という。そういう光さんと、「弾かせていただいてありがとうございます」という私の気持ちがかみあって、とても気持ちよくお付き合いさせていただいたと思っています。そういうのって、なかなかないですよね。
物事を決める時も、お互い意見を出し合って一つのことを決める民主主義みたいなものが、光さんの生き方の根本に強くあるんです。プログラムを決めるのでも、こっちが意見をしっかり言って、光さんの意見もきいて、それでお互い落としどころを探って決める。そういう当たり前のことが、実践として生きている。人を説得するには自分の考えがきっちりないと目上の人に言えない。でも光さんは、そういうことを欲しておられた。「何でもいいです」とか「やっていただけるだけでいいです」とか、そういうことは一切、思っておられなかったですね。私が「こうやりたいんですが、どうですか?」と言って、やっと始まる。そういう生き方が、演奏にも通じるんですよね。「私はこう弾きたいです」というのをちゃんと現して、初めて合わせられる。そういう当たり前のことができないとだめだな、ということがよく分かりました。
――演奏は、その方の人間性が出るものだというのがよく分かるエピソードですね。
通崎:そうですね、光さんはお医者さんのご家庭に生まれ育たれたとうかがっています。いつもとても品の良い方だなと思っていました。そういうのって素敵ですよね。気遣いも素晴らしいですし。売名行為のために気を遣う人ってたまにいるじゃないですか(笑)。そうではなく、心から全てに配慮している感じ。それがスタイル。でも決して八方美人的なではないんです。怖いお父さんみたいなところもありましたし(笑)。
でも、この出会いも木琴があったからこそ。マリンバ時代も、楽譜を貸していただいたりはしていましたが、木琴を通じてお付き合いが密になりました。
(最終回に続く)