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2023-04-23 更新

マルタ・アルゲリッチとディエゴ・マテウス南米の二つの国が育んだ二人の音楽性

5月13、14日に水戸芸術館で水戸室内管弦楽団(MCO)第111回定期演奏会が、5月16日には東京公演が東京オペラシティで、開催されます。今回の演奏会で水戸室内管弦楽団が迎える2人の共演者は、偶然ではありますが、どちらも南米生まれの音楽家となります。

まず、今回が初共演となる指揮者のディエゴ・マテウス氏は、南アメリカ大陸の北部、カリブ海に面したベネズエラの出身です。世界的に有名になったベネズエラの音楽教育「エル・システマ」で学び、現在はヨーロッパの数々の歌劇場の指揮台に立ち、各国のオーケストラと共演を重ねています。MCOと多くのメンバーが共通するサイトウ・キネン・オーケストラとは、2011、14、18、19年の4回にわたって共演し、小澤征爾総監督の信頼も厚く、2018年にはドイツ・グラモフォン創立120周年スペシャル・ガラ・コンサートで小澤総監督と同じ舞台に立ちました。また昨年には、小澤征爾音楽塾首席指揮者就任のニュースが話題を呼びました。

そしてもう一人が、現代最高峰のピアニストと称えられるマルタ・アルゲリッチ氏で、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスのお生まれです。MCOとは2017年の第99回定期演奏会以来、18年19年、そしてコロナ禍を挟んだ22年とコンスタントに共演を重ね、今回でついに5度目の共演となります(いずれも別府アルゲリッチ音楽祭との共同制作)。これまでにアルゲリッチ氏と演奏してきた作品には、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第1、2番(小澤総監督指揮。CD発売)、ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番、シューマンのピアノ協奏曲、というように、彼女が長年弾き続け、大切にしてきた名曲が選ばれており、どの回でもエキサイティングなアンサンブルが生まれました。今回の共演に選ばれたラヴェルのピアノ協奏曲も、アルゲリッチ氏のピアニストとしての名声を築いた1曲として知られています。5月にはどんな演奏を聴かせてくださるのか、期待が高まります。


アルゲリッチ氏と水戸室内管弦楽団の共演(第109定期演奏会より) ©大窪道治
 

ヨーロッパ発祥のクラシック音楽の世界にも、南米出身の音楽家は数多く活躍しています。演奏家に関して言えば、アルゼンチンにはアルゲリッチ氏(1941年生)のほか、同年代にブルーノ・レオナルド・ゲルバー(1941年生)やダニエル・バレンボイム(1942年生)といった巨匠ピアニストがいますし、一世代上には指揮者カルロス・クライバー(1930~2004)がいました。クライバーはアルゼンチンの生まれではないものの(5歳のときにドイツからアルゼンチンに亡命)、南米というヨーロッパから離れた土地で育ったことが、彼の音楽性にも大きな影響を与えていたようです(これに関しては、片山杜秀氏の『クラシックの核心』に興味深い論考があります)。アルゼンチンの隣国チリにはクラウディオ・アラウ(1903~1991)、ブラジルにはネルソン・フレイレ(1944~2021)のような大ピアニストがいました。ウルグアイ出身の指揮者で作曲家のホセ・セレブリエール(1938年生)は、タングルウッド修行時代の小澤征爾氏のルームメイトで、北アメリカを中心に活躍しています。若い世代ではグスターボ・ドゥダメル(1981年生)やディエゴ・マテウス(1984年生)をはじめ、ベネズエラのエル・システマ出身の音楽家たちが注目を集めています。

ところで、「南米」と一口にいっても大陸の北から南まで、風土も国ごとの歴史や文化も異なります。私たちは「ラテン」という言葉から、たとえば「情熱的」「陽気」「自由」といったステレオタイプなイメージを持ちやすいのですが、上述した演奏家たちを眺めてみても、そのようなイメージが一様に当てはまるわけではありません。そもそも演奏の特徴はそれぞれとても異なっています。しかし、表面的なイメージを排して南米のそれぞれの国の歴史や文化を掘り下げてみると、そこで生まれ育った音楽家たちの音楽性がそうした歴史や文化と無関係でないことにも気が付くのではないでしょうか。ここでは、5月の演奏会に出演するマルタ・アルゲリッチ氏とディエゴ・マテウス氏の故国であるアルゼンチンとベネズエラでクラシック音楽がどのように受容されてきたのかを紹介しながら、それぞれの国が育んだお二人の音楽性の源泉を探ってみたいと思います。
 

アルゼンチン ~移民の国のコスモポリタン性~

アルゲリッチ氏が生まれたアルゼンチンの首都ブエノスアイレスは、「南米のパリ」とも呼ばれ、ヨーロッパ風の街並みが有名です。その風景はアルゲリッチ氏の音楽にも通じるところがあると言えるかもしれません。アルゲリッチ氏もヨーロッパの19世紀ロマン派音楽をメインのレパートリーにしており、故国アルゼンチンの作曲家のヒナステラやピアソラの音楽を弾くこともあるものの、頻度としては、ヨーロッパの作品と比べて決して多くありません。この点は、たとえば非ヨーロッパ圏の多くの演奏家、あるいはヨーロッパでも北欧や東欧の演奏家が、自国で生まれた音楽を大切なレパートリーとして精力的に取り組む姿勢とは、違った態度に思われます。アルゲリッチ氏が故国の音楽を軽んじているわけでは決してありません。むしろアルゲリッチ氏は「アルゼンチンの音楽家」というよりも、国境や民族の垣根を超越した「コスモポリタンの音楽家」と言ってよいのではないでしょうか。そしてもしかすると、この「コスモポリタン性」こそが、じつは「アルゼンチンらしさ」なのかもしれない、とブエノスアイレスのヨーロッパ風の街並みを思い起こして考えたりもします。ブエノスアイレスの歴史を紐解いてみましょう。
 

「春の香りがした。北の遅い春の香り。私は春の香りが好きだ。木々が茂る鮮やかな緑にまじり、ところどころ白樺で真っ白になった丘の間を鉄道は走る。〔中略〕大好きな季節に気づかずに過ごすところだった。九月のアルゼンチンの花咲く大草原で、春に会えることばかり楽しみにしていた。」
(プロコフィエフ 1918年5月19日の日記より)

 1918年5月、交響曲第1番〈古典的〉(今回の演奏会でも取り上げられる1曲)の初演を終えたばかりの気鋭の作曲家プロコフィエフは、ロシア革命の動乱を避けるためにシベリア鉄道に飛び乗りました。彼はまず、ウラジオストクから日本を経由してブエノスアイレスに渡航することを計画し、列車のなかでスペイン語の勉強もしています。結局彼は日本で南米行きの船に乗ることができずに、ハワイ経由で北アメリカに渡ることになるのですが、シベリア鉄道の車内で綴られたプロコフィエフの日記からは、アルゼンチンへの憧れが伝わってきます。彼がアルゼンチンを目指した理由は明らかではありません。ただ、当時のアルゼンチンが経済発展著しく、特に首都ブエノスアイレスは文化的にも優れた水準にありました。それはプロコフィエフにとって大きな魅力だったはずです。

アルゼンチンは移民の国です。19世紀後半、輸出産業の発展に伴う人手不足を補うために移民の受け入れを緩和した結果、アルゼンチンにはヨーロッパ各国から多数の移民が流入することになりました。1854年に人口9万人の小さな街だったブエノスアイレスは、1895年には人口67万人にまで急速に膨れ上がり、20世紀になると人口100万人を超える南米最大の都市へと変貌を遂げたのでした。

ヨーロッパでの恵まれなかった生活を打開するためにブエノスアイレスに移住した人々がまず夢見たのは、故国で叶わなかった中流階級の生活でした。ブエノスアイレスの街がヨーロッパの都会を模して作られたのも、移民たちがヨーロッパ風の生活を好んだためでした。移民の中で大多数を占めていたイタリア人たちはオペラを熱望し、1908年、ミラノ・スカラ座の外観を彷彿とさせるテアトロ・コロン(コロン劇場)が完成します。こけら落としはヴェルディの大作〈アイーダ〉。ブエノスアイレスの市民は熱狂したといいます。1918年にロシアを出国したプロコフィエフも、ブエノスアイレスであれば、ヨーロッパと変わらない生活が送れると期待したのかもしれません。


テアトロ・コロン ©Andrzej Otrębski
 

当時のヨーロッパの演奏家たちも、数多くブエノスアイレスを訪れています。四季が逆転している南半球は、ヨーロッパのシーズン・オフに演奏活動をするには都合が良かったので、多くの演奏家がブエノスアイレスに1か月以上の長期滞在をしたといいます。アルゲリッチ氏が生まれた1940年代には、トスカニーニ、フルトヴェングラー、カラヤン、バックハウス、ギーゼキング、ルービンシュタインなど、綺羅星の如き演奏家たちがブエノスアイレスで演奏しています。さながら、当時のヨーロッパのクラシック音楽シーンを濃縮したような状況ではないでしょうか。少女時代のアルゲリッチ氏は母親に連れられて高名なピアニストの演奏を聴き、面会してピアノの腕前を披露したり、サインをもらったりしていました。後に師事することになるフリードリヒ・グルダとの交流も、そのようにして始まったのでした。

ヨーロッパでない土地に作られたヨーロッパ風の世界。そこに生きる人々のヨーロッパへの渇望と、憧れたものを自分のなかに貪欲に取り込もうとする強靭さ。そのような土壌に、アルゲリッチ氏のコスモポリタン性は育まれてきたはずです。5月に演奏されるラヴェルのピアノ協奏曲は、このコスモポリタン性が十全に発揮される音楽ではないでしょうか。ラヴェル自身が「モーツァルトとサン=サーンスの精神で作曲された」と語り、しかもラヴェルと縁の深いバスク地方やスペインの音楽、更にはジャズの要素まで取り入れられた、まさにコスモポリタンの音楽なのです。
 

ベネズエラ ~エル・システマが伝えるもの~

ヨーロッパからの移民とともにクラシック音楽を受け入れ、急速に根付かせたアルゼンチンに対して、ベネズエラにおけるクラシック音楽の発展はずっとゆっくりとしたペースでした。1930年代にベネズエラ交響楽団が創設され、国の支援を受けながら活動を開始しましたが、団員は大多数が外国人で、1970年代になってすらも、「一般のベネズエラ人にオーケストラ活動ができるはずがない」と考えられていたそうです。聴衆も富裕層のごく一部に限られ、一般にはほとんど普及していませんでした。エル・システマ出身でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に入団したコントラバス奏者のエディクソン・ルイ―ス(1985年生)は、9歳で音楽教室を訪ねたときのことを、こう語っています。

「衝撃的なものを見たのです。それは、コントラバスという楽器でした。当時、僕はまだコントラバスという楽器が、どういう音を出し、どのように弾くのかもわかりませんでした。」
(山田真一『エル・システマ――音楽で貧困を救う南米ベネズエラの社会政策』53頁)

ルイ―スはそれまでクラシック音楽を全く聴いたことがなかったのでした。エル・システマはこのような状況のベネズエラで活動を開始し、クラシック音楽を着実に根付かせていったのです。
 

エル・システマは音楽家のホセ・アントニオ・アブレウ(1939~2018)が1975年にベネズエラの首都カラカスで、ベネズエラ人メンバーによる国立のユース・オーケストラをつくろうとしたことに端を発します。最初に集まったのはわずか8人。演奏の基礎も不十分なレベルでしたが、アブレウが団員集めとともに国内外での演奏活動を精力的に展開し、オーケストラで演奏することの楽しさを広く伝えたことにより、創設から1年後には150人近い規模に成長しました。さらに1977年からは政府からの経済支援も得られるようになり、またカラカス以外の街にもユース・オーケストラを組織する動きが広がって、いくつもの地方支部ができてゆきます。1978年、国立ユース・オーケストラは現在の名称であるシモン・ボリバル・オーケストラに改称。1979年にはオーケストラ活動と楽器教育事業を運営する FESNOJIV(フェスフィノフ)= Fundación del Estado para el Sistema Nacional de las Orquestas Juveniles e Infantiles de Venezuela(ベネズエラの児童および青少年オーケストラの国民的システムのための国家財団)が設立されました。「エル・システマ」(=システム)という名称はこの組織名に由来します。

エル・システマの最大の特徴は、政府の支援によって子どもたちには無償で楽器と音楽指導が提供されるという点にあります。さらに、高校生以上が所属するユース・オーケストラに入団すると奨学金が支払われ、オーディションに合格したメンバーで構成される選抜オーケストラに入団できればセミプロの扱いで給金も支払われます。これが貧困対策や犯罪や非行への抑止につながることから、ベネズエラの社会政策の一環として推進され、世界的な注目を集めるようになりました。エル・システマは現在、ベネズエラ国内で60万人もの子どもたちが学ぶ「世界最大の音楽教室」となっています。


シモン・ボリバル・オーケストラ ©Welland
 

しかしここで忘れてはならないのは、エル・システマが、ベネズエラの社会政策と連動した音楽の裾野を広げる役割とともに、選抜オーケストラなどを通じて優秀な子どものモチベーションを高め、育成する役割も担っている点です。ディエゴ・マテウス氏のようなエル・システマ出身で世界的な評価を勝ち取った音楽家が数多く登場したことも、エル・システマが注目された理由の一つでした。いわば底辺を広げるシステムと頂上を高めるシステム。この2つの役割の原点にあったのは何だったのでしょうか。それは、アブレウが子どもたちに伝えようとした、オーケストラで演奏する楽しさだったように思えます。1975年にベネズエラ人によるユース・オーケストラを立ち上げたばかりのアブレウは、演奏の基礎ができていない子どもたちにも演奏会の舞台に立たせ、しかも短期間に国内外での数多くの演奏会を経験させていました。まるで、音楽する喜びは何度でも味わえる、音楽の楽しさに際限はない、と言おうとしていたかのようです。現在でも、エル・システマで学ぶ子どもたちは、楽器がまだ十分に弾けない段階からオーケストラに入って合奏を経験するそうです。マテウス氏は次のように語っています。

「〔エル・システマでは〕日本とは違い、個人練習から楽器を始めるのではなく、いきなりオーケストラの一員として弾くんです。楽器が弾けなくてもやる。オーケストラという集団の中で演奏できることがすごく好きで、それがモチベーションになりました。その中にいるだけでも楽しいから、弾きたいという気持ちになれたんです。」
小澤征爾音楽塾のインタビューより

 マテウス氏の「〔集団の〕中にいるだけでも楽しい」という言葉は印象的です。その楽しみを感じられるからこそ、彼は労力を惜しまずにオーケストラの団員とコミュニケーションをとり、音楽をより良いものに練り上げようとするのでしょう。5月の演奏会の前半でマテウス氏が指揮するプロコフィエフの交響曲第1番〈古典〉とストラヴィンスキーの〈プルチネッラ〉組曲は、MCOでは過去に小澤征爾総監督も指揮した作品です(〈古典〉交響曲は2000年の第41回定期と久慈公演、〈プルチネッラ〉組曲は1998年のヨーロッパ公演と第33回定期で演奏。CD発売)。小澤総監督が作ってきたMCOの音楽に、小澤総監督が信頼を寄せるマテウス氏が新たな息吹を与えることになります。どんな演奏が生まれるのか、5月の演奏会をどうぞ楽しみになさってください。


水戸芸術館音楽部門 篠田大基
水戸芸術館音楽紙『vivo』2023年4-5月号より

参考文献

  • 片山杜秀『クラシックの核心――バッハからグールドまで』河出書房新社、2014年。
  • バレンボイム,ダニエル『ダニエル・バレンボイム自伝』蓑田洋子訳 増補改訂版 音楽之友社、2003年。
  • プロコフィエフ,セルゲイ「プロコフィエフ 日本滞在日記」サブリナ・エレオノーラ、豊田菜穂子訳『プロコフィエフ短編集』所収、165-209頁 群像社、2009年。
  • ベラミー,オリヴィエ『マルタ・アルゲリッチ――子供と魔法』藤本優子訳 音楽之友社、2011年。
  • 増田義郎「ブエノスアイレス――ガルデルとボルヘスの町」荒このみ編『7つの都市の物語――文化は都市をむすぶ』所収、173-202頁 NTT出版、2003年
  • 山田真一『エル・システマ――音楽で貧困を救う南米ベネズエラの社会政策』教育評論社、2008年。
  • 山田真一「ディエゴ・マテウスを育んだもの――『エル・システマ』出身の逸材」『サイトウ・キネン・フェスティバル松本2011 プログラム』所収、46-47頁。
  • 小澤征爾音楽塾ウェブサイト「インタビュー 指揮 ディエゴ・マテウス」2023年2月1日 https://rohmtheatrekyoto.jp/archives/interview_diego-matheuz/
  • ベネズエラ大使館ウェブサイト「エル・システマ」 https://venezuela.or.jp/trivia/el_sistema/