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2026-03-01 更新

連載「シューベルトの歌曲の楽しみ方」第2回
「もうひとつの《白鳥の歌》へ」

もうひとつの《白鳥の歌》へ
 
堀 朋平(美学・音楽学)

アーティストは期待を越える

 クリストフ・プレガルディエンは世界屈指のスタンダードであり、かつ永遠のチャレンジャーだ——前回の終わりでそう言いました。今回はこれについて、予習用の音源なども紹介しつつ、掘り下げてみたいと思います。
 突然ですが、あなたは好みの食べ物を、いつも同じやり方で召し上がりたいほうでしょうか? 「あの味」が忘れられなくて、繰り返しリピートしてしまう……心と体の安定と安心を求める傾向がヒトには元々あるそうですね。マグロは絶対にわさび醤油で、とか。
 でも芸術家と呼ばれる人びとには、そうでないタイプも多い。ふつうの人が予想もしないことを切り開きつづけるのが彼らの本領です。いっけん柔和なシューベルトにも、そういう衝動がそなわっていました。それもかなり強く。せっかくの固定ファンや友人を置いてけぼりにしても、楽譜が売れなくても、「こうしたい」という衝動のほうが優先される。たぶん止められないんですね。
 そもそも歌曲のデビュー作がとんでもない難物でした(☞前回連載)。じつはこれは他のジャンルにも当てはまる傾向です。ピアノ・ソナタ、弦楽四重奏曲、さらには教会の伝統に拘束されるミサ曲にいたるまで、期待値を表現意欲がどうしても越えてしまう。
 その反面、いったん作りあげたものがどう受容されるかについては、かなり寛容なところがあった。たとえば楽曲の調。たとえていえば、調は「絵画をどんな色調にするか」に匹敵するもの。そんな死活的な要素を、歌う人にあわせて移すことも厭いませんでした。シューベルト歌曲の音域は、自身の高い声と同じテノールのものがほとんどですが、最初に歌い広めた人たちの多くがバリトンだったという事実は雄弁です。彼らのために自ら移調してあげた楽譜がけっこう残っているのです。
 調だけでなく、ベテラン歌手が勝手に音符を変えたのを聴いて「へぇ、初めて聴く曲ですが……いいですね」なんて皮肉交じりの鷹揚な返しをするほど。ユーモアと社交のセンスも悪くなかったようです。


即興から生まれる対話

 さて、クリストフ・プレガルディエンはテノールですので、シューベルト歌曲の調は変えずに歌います(一音下げることはけっこうありますが)。でも、いろいろ試したいワクワクは止まらない。「こうしてみたら…?」という発想を活かすことで、作品に秘められた可能性を無限に引き出したいと思うタイプなのです。想像ですが、マグロの刺身をマヨネーズやオリーブオイルで召し上がることにも喜びを感じられるのではないでしょうか。
 具体的にみていきましょう。1990年代にフォルテピアノ奏者アンドレアス・シュタイアーとともにシューベルト歌曲の“リアルな響き”を最高水準でなしとげたあと、2000年代のプレガルディエンは、楽譜に書いていない装飾音を入れる傾向を加速させていきます。水戸芸術館でも《冬の旅》を歌っていますので、もしかするとご記憶の方もいらっしゃるかもしれません(1996年10月6日)。
 たとえば今回のプログラムにも入っている《秋》(D945)では、楽譜に書いてある音符を大きく揺さぶり、ときには1オクターヴも下げてメロディのかたちを変えることで“寒風”を立体的に表現している。私の知り合いには、こうした闊達さに舌を巻くアーティストもいます。


https://ml.naxos.jp/work/281629

 即興的で柔軟なピアニスト、ミヒャエル・ゲースを伴奏者に選んだことで、この性質はさらに顕著になっていったように思います。ゲースとの共作になる《美しき水車小屋の娘》のDVD(2009年)に附属のインタビューでは、自由な装飾音によって新たなスタンダードを開拓していきたい、と自身ではっきり語っています。
 この演奏はYouTubeでも観ることができます。プレガルディエンがちょっとした装飾を入れると、ゲースが微笑みながら違う合いの手を入れて返す——。とくに「若者」と「小川」の対話には、ジャズセッションを思わせるスリルが生まれています。ぜんぶ聴く時間がないという方は、ぜひ第4曲と20曲だけでも。きっと驚かれると思います。これにはシューベルトも「いいね!」というのではないでしょうか。
https://www.youtube.com/watch?v=9MyAGZBKAgs&t=36s


無二の物語を

 そもそも歌曲というのは、詩人の作りあげた世界を、作曲家が大胆に“作り変える”ことで出来上がったもの。言葉を音にするプロセスで、シューベルトも詩人の領分に多大な介入をおこなっています。ですからそれを演奏/解釈する人も、最大限に自由であることが許されてしかるべきなのです
 こうした“歌手の自由”がもっとも輝くのが「選曲」。今回のプログラムを、さわりだけ見ていきましょう。
 《白鳥の歌》が連作かどうかについては議論がありますが、自筆譜は、はっきり定まった曲順を想定して書かれています。プレガルディエンは、その第1部の全7曲をバラして再構築している(詳しいことは省きますが、第2部は“詩集の順番”にしたがって最後に6曲まとめて歌われます)。きわめて異例の構想です。

※これは研究者によって「解釈的ドラマトゥルギー」などとも呼ばれています。詳しくは拙著『わが友、シューベルト』(アルテスパブリッシング、2023年)をご覧いただければ幸いです。



《白鳥の歌》自筆譜より第3曲《春のあこがれ》末尾と第4曲《セレナード》冒頭。続けて演奏できる前提で、ひとつづきの束に綴られている(ニューヨーク、モーガン図書館)。
 
 驚くのはまだ早い。これにさらに後期歌曲をあしらうことで、独自の物語が紡がれます。ありえたかもしれない無数の可能世界のひとつが解き放たれるのです。
 最初の2曲に照準しましょう。幕開けが、今まで一度も録音したことがない《悲しみ》(D772)。その原語 “Wehmut” は、「もう過ぎ去ってしまった」という憂うつ=メランコリーの心的状態をさします。シューベルトが書いたとおりの曲順でいえば、《白鳥の歌》は愛を爽やかに届けることで始まるのですが、プレガルディエンはこれと真逆の“メランコリックな別れ”の色にガラッと塗り替えたのです。
 これに続くのが、《白鳥の歌》第1部を閉じる《別れ》。いきなり終曲がくる。さらに、この2曲の調は「ニ短調→変ホ長調」。先ほどの比喩でいえば、「青と赤」くらい正反対の色調をぶつけています。
 やがて、先ほど触れた《秋》からの3曲で寒々しい風が吹きすさびますが、そのあとは季節が《春》に進み(戻り?)ます。たいへん独特な時間感覚——。このあたり、プログラムのちょうど真ん中くらいには、エルンスト・シュルツェという詩人による歌曲が4つも入っています。
 詩人シュルツェ。ある2人の姉妹に、尋常でないストーキングまがいの恋をして、その記録を《詩的日記》(1813年)という詩集に昇華させ、28歳で夭逝した異才。そんな病める性質ゆえでしょうか、シューベルトは死の2年前、この詩集に強く惹かれました。《詩的日記》にもとづく9つのシュルツェ歌曲は、翌年の《冬の旅》を予告する暗さをたたえつつ、《冬の旅》にはない多幸感に溢れています。
 

エルンスト・シュルツェ(1789-1817)
 
 
相棒

 この連作歌曲《詩的日記》にプレガルディエンは特別の想いを寄せ、2015年に1枚のディスクに収めました。しかも、やはり独自の曲順で。ピアノのジュリアス・ドレイクは、ゲースとはまた違うスーパーリリカルな音の粒が魅力。それに乗せた力強い声で、病んだ詩人の心のひだを探ってゆく。そんな《詩的日記》と《白鳥の歌》の融合は、おそらく史上初。その妙を聴き漏らさぬために、この1枚もぜひあらかじめ聴いてみてください。


https://www.pregardien.com/de/diskographie/lied/moderner-flugel/466-poetisches-tagebuch

 ピアニストの話題になりましたので、プレガルディエンの今回の相棒について、思い出を少し。私が学生時代にいちばん愛聴したディスクのひとつが、ジョン・エルウィス&渡邊順生の《美しき水車小屋の娘》。夏季集中講義「チェンバロ基礎講座」でいらした渡邊先生から、じかに購入した一枚でした。エルウィスの澄んだリリック・テノールに、さらなる抒情をやどらせるフォルテピアノ。


https://kojimarokuon.com/products/alcd-1015?_pos=11&_sid=65fbaffbb&_ss=r

 そのときの講義では、「モーツァルトの前打音をどう弾くか」について、18世紀の理論書からきわめて論理的に答えを導き、実践しておられました。そんな渡邊先生の講義が、20代の私に音楽探究の火を灯してくれたのです。
 リリシズムとロジックをあわせもつフォルテピアノ奏者。理数的な頭脳こそが抒情を支えるというのが、今も変わらぬ思いです。



堀 朋平(ほり・ともへい)
1979年生まれ。国立音楽大学大学院修士課程修了。東京大学大学院博士課程修了(文学博士)。主著に『わが友、シューベルト』(アルテスパブリッシング、令和5年度芸術選奨文部科学大臣新人賞・評論部門)。住友生命いずみホール音楽アドバイザー。九州大学ほか非常勤講師。