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2021-02-13 更新

雅楽はゴジラの夢を見たか?

芝祐靖 撮影:田渕勝彦 3月13日の「今昔雅楽集 三」では、戦後の雅楽界を牽引した演奏家であり、作曲家でもあった、芝祐靖氏(1935~2019/伶楽舎創立者・初代音楽監督)の作品を特集します。この演奏会で取り上げる氏の代表作のひとつが、管絃のための即興組曲〈招杜羅紫苑〉です。
 その表題曲の第3曲〈招杜羅紫苑〉を、私が初めて聴いたのは、2018年6月末、東京での伶楽舎の演奏会でした。雲海のような笙の響きのなかから、少しずつ形を現わして加速する箏の旋律。そこに管楽器が加わり、3+2+3拍子の旋律が速いテンポで繰り返されます。古典雅楽にはないテンポの変化、変拍子、スピード感。荘重な雅楽のイメージを覆すクールで颯爽とした音楽でした。演奏会が終わっても、その旋律が私の頭を離れず、この曲が大好きになりました。

 芝祐靖氏はこの作品の解説で、薬師如来を護る十二神将の名前を「まるでテレビに出てくる怪獣のよう」と書いて、宮毘羅(くびら)大将、伐折羅(ばさら)大将、頞儞羅(あにら)大将を、グビラ、バキラ、ガニラと茶化しています(CD『招杜羅紫苑』ブックレットより。日本コロムビア COCF 13075)。
 十二神将の一体、招杜羅(しょうとら)大将を表題にしたこの曲も、もしかすると怪獣のイメージだったのかもしれません。

 ふと気がつきました。変拍子、旋律の反復、怪獣といえば……、もしや〈招杜羅紫苑〉のモデルは、伊福部昭作曲のゴジラの、あのテーマ??
 4+5拍子の執拗な繰り返しです。ゴジラと異なるのは、雅楽にはオーケストラと違って低音楽器がないために軽やかな響きになること。その爽快なサウンドは、伊福部作品より、むしろミニマル・ミュージックを連想させるかもしれません。〈招杜羅紫苑〉を聴くと、こうした同時代の音楽が作品のなかにこだましているように、私には思えました。

 〈招杜羅紫苑〉の組曲全体は、曼陀羅を表す古典雅楽風の第一曲〈序奏と曼陀羅〉で始まり、途中には現代的なサウンドや楽器の特殊奏法が取り込まれたり(第三曲〈招杜羅紫苑〉、第五曲〈遊ぶ飛天〉)、はたまた古代シルクロードを思わせるエキゾチックな旋律が出現したり(第四曲〈間奏と迦樓羅(かるら)の面〉、そうして音楽は、最後の第七曲〈怒り持国天と終曲〉で再び古典雅楽の世界へと帰ってゆく……という、古いものと新しいものが混然となった、まさに「曼陀羅」のような音楽です。

 芝祐靖氏がこの曲を作曲したきっかけは、武満徹が作曲した雅楽〈秋庭歌〉(水戸芸術館の「今昔雅楽集 一」でも上演)にあったそうです。
〈秋庭歌〉の演奏(「今昔雅楽集 一、七夕の宴」より)
〈秋庭歌〉の演奏(「今昔雅楽集 一、七夕の宴」より)
 

 1973年に〈秋庭歌〉初演に参加して以来、芝氏はこの曲に惚れ込み、西洋音楽の作曲家が作った雅楽〈秋庭歌〉に対して、雅楽人の自分は何ができるのかと問い続け、そして〈秋庭歌〉に拮抗する作品を作ろうと決心したと語っています。
 第4曲前半の「寺院の庭を表す」という〈間奏〉は、武満徹の〈秋庭歌〉へのオマージュではないでしょうか。続く第4曲後半の〈迦羅の面〉には、篳篥2管が互いに離れた位置で演奏するようにという指示があり、〈秋庭歌〉で用いられたエコーの効果を思わせます。

 また、大篳篥という現在の雅楽では使われない古代楽器が用いられている点も特筆すべきでしょう。
 古代の音楽に対する芝氏の関心は、この作品以後、奈良時代の芸能「伎楽」の復元(その音楽は「今昔雅楽集 二」で演奏)、失われた雅楽曲〈曹娘褌脱〉(「今昔雅楽集 一」で演奏)や敦煌琵琶譜の音楽(今回演奏)などの復曲へと発展していきました。
〈曹娘褌脱〉の演奏(「今昔雅楽集 一、七夕の宴」より) 伎楽の音楽の演奏(「今昔雅楽集 二、舞の絵巻」より)
左 〈曹娘褌脱〉の演奏(「今昔雅楽集 一、七夕の宴」より)/右 伎楽の音楽の演奏(「今昔雅楽集 二、舞の絵巻」より)

 雅楽1000年の縮図のような、そして作曲者・芝祐靖氏の業績の集約でもあるような音楽。〈招杜羅紫苑〉を、3月13日、雅楽の古典や再現された古代敦煌の音楽とともに、どうぞお楽しみください。

篠田大基(水戸芸術館音楽紙『vivo』2021年2-3月号より。一部加筆修正)